そうした身体感覚を伴った読み方は、単なる懐古趣味ではない。考えながら読むための足場になっている。一方で、デジタルは進むことが得意である。
すぐに調べられる。すぐに拡大できる。すぐに動画へ接続できる。すぐに答えの手がかりへ近づける。これは大きな利点である。しかし同時に、「戻る」「止まる」「迷う」「比較する」といった学びが弱くなる可能性もある。
問題は、デジタルが悪いということではない。その教科で育てたい力と、道具の性質が合っているかどうかである。「答えにたどり着くこと」と「考えること」は違う。これは、AIの問題ともよく似ている。
AIは、問いに対して非常に速く答えを返す。文章を整える。要点をまとめる。別の視点を出す。発想を広げる。使い方によっては、思考を深める強力な道具になる。しかし一方で、AIには「思考の途中」を飛ばさせてしまう危うさもある。本来、学びには過程がある。
・問いを持つ。
・考える。
・試す。
・失敗する。
・修正する。
・気付く。
この過程の中で、人は学ぶ。ところが、AIもデジタル教科書も、使い方によっては、問いを持つ。だが、すぐに答えへたどり着くという流れをつくりやすい。
「答えを得ること」と「考えること」は同じではない。教育で大切なのは、正解を速く知ることだけではない。正解に向かうまでの試行錯誤を経験することでもある。
私は学級で「質問の4ステップ」を大切にしている。わからないことがあったとき、すぐに「先生」と呼ぶのではなく、まず自分で考える。次に周囲を見る。近くの友達に聞く。それでもわからなければ教師に聞く。
一見すると、これは教室を静かにするためのルールに見えるかもしれない。しかし、私にとってこれは単なる学級経営の技術ではない。思考を守る仕組みである。子どもは悪気なく、すぐに教師へ答えを求める。
「先生、どうすればいいですか」
「先生、これで合っていますか」
「先生、次は何をしますか」
もちろん、必要な支援はある。教師が助けるべき場面もある。困っている子を放置してよいわけではない。しかし、いつも教師が先回りして答えを与えてしまえば、子どもは自分で考える前に外側へ答えを求めるようになる。これはAIでも同じである。
AIを使うこと自体が悪いのではない。問題は、AIに考えてもらうのか、AIと一緒に考えるのかである。デジタル教科書も同じだ。デジタル教科書に学ばせてもらうのか。デジタル教科書を使って自分で学ぶのか。この違いは大きい。
教師に必要なのは「学びを設計する力」
だからこそ、これから学校に必要なのは、ICT機器の操作研修だけではない。むしろ必要なのは、学びを設計する力を高める研修ではないか。

