どの場面ではデジタルを使うのか。
どの場面では紙を使うのか。
どの場面では動画を見せるのか。
どの場面ではあえて見せずに考えさせるのか。
どの子には読み上げが必要なのか。
どの子には紙面に書き込む時間が必要なのか。
どこまで支援し、どこから子ども自身に引き受けさせるのか。
こうした判断が、これまで以上に教師に求められる。デジタル教科書の導入によって、教師の役割が小さくなるわけではない。むしろ、教師の役割はより高度になる。知識を伝えるだけなら、教師以外にもできることが増えていく。動画もある。AIもある。デジタル教材もある。
だからこそ教師は、子どもがどこで立ち止まり、どこで考え、どこで助けを求め、どこで自分で引き受けるのかを見取らなければならない。
教師は、答えを配る人ではなく、学びの過程を設計する人になる。その意味で、デジタル教科書の導入は、単なる教材の変更ではない。教師の専門性を問い直す出来事でもある。
学校が守るべきは「途中」
私は、主体性とは「何をしたいか」だけではなく、「何を引き受けるか」だと考えている。
子どもが自分で考える。
自分で選ぶ。
結果を予測する。
失敗したら修正する。
必要なときには助けを求める。
そうした経験を通して、少しずつ自分の学びを引き受けられるようになっていく。そのためには、便利な道具を与えるだけでは足りない。考える時間、迷う時間、試す時間、失敗する時間、戻る時間、読み返す時間……。
そうした「途中」を、学校は守らなければならない。2030年度以降の本格的なデジタル教科書の使用を見据え、学校現場にはまだ準備の時間がある。その間に準備すべきことは、端末の操作に慣れることだけではない。紙かデジタルかの優劣を決めることでもない。本当に考えるべきなのは、どの学びに、どの道具を、何のために使うのかということである。
紙には紙の良さがある。デジタルにはデジタルの良さがある。AIにはAIの良さがある。しかし、どれも道具である。道具に使われるのではなく、道具を使う。そのためには、教育の目的を見失ってはいけない。
子どもが自ら考え、学び、他者と関わり、自分の人生を引き受けていく力を育てること。デジタル教科書の議論は、結局そこに戻ってくる。教育とは、答えを早く与えることではない。答えに向かう途中を、子ども自身が歩けるようにする営みである。



