昔ながらの苦労を、わざわざ残すことが尊いわけではない。洗濯機や食洗機が人間の時間を空けてきたように、デジタルもまた、人間がよりよく生きるための道具になり得る。だからこそ、問うべきなのは「使うか、使わないか」ではない。道具に使われるのではなく、道具をどう使うかである。
問題は、デジタル化そのものではなく、デジタル化によって本来育てるべきものまで削ってしまうことである。教育には、効率化してよい部分と、効率化してはいけない部分がある。
例えば、連絡帳を考えるとわかりやすい。保護者への伝達だけが目的なら、連絡事項はすべてデジタル配信にした方が速く、正確で、効率的である。教師の負担も減る。保護者にとっても確認しやすい。しかし、連絡帳には別の役割もある。
子どもが明日の持ち物を自分で確認する。予定を聞き取り、自分で書く。帰宅後にそれを見て、翌日の準備をする。忘れ物をしたときには、なぜ忘れたのかを考える。つまり、連絡帳は単なる伝達手段ではなく、子どもが自分の生活を組み立てるための道具でもある。
ここを見落として、教師と保護者の間で正確に情報が伝わればよいと考えてしまうと、肝心の子どもが抜け落ちる。効率化によって、育てたい力まで削ってしまうことがある。デジタル教科書も同じである。
・速く調べられる。
・すぐに動画が見られる。
・音声で読んでもらえる。
・自動で記録される。
それらは確かに便利である。支援として有効な場面も多い。しかし、便利さが増しても、私たちは1つの問いを忘れてはいけない。その便利さは、子どもの学びを深めているのか。それとも、子どもが考えるはずだった過程を飛ばしているのか。ここに、デジタル教科書を考えるうえでの大きな論点がある。
国語・社会・道徳で問われる「立ち止まる力」
この点で、文部科学大臣の会見などで、デジタル教科書の使用を制限する学年や教科の考え方が示されていることは、現場感覚としても理解できる部分がある。
特に、小学校低学年から中学年の子どもや、国語、社会、道徳などの教科について、紙をすべてなくして完全にデジタルへ置き換えることには慎重であるべきだという議論には、教育上の意味がある。もちろん、これは紙とデジタルを組み合わせる形を否定するものではない。紙を一切使わず、すべてをデジタルに置き換えることには慎重であるべきだ、という趣旨で受け止めるべきだろう。
では、なぜ国語、社会、道徳なのか。私は、この3教科には共通点があると考えている。それは、「正解に速くたどり着くこと」が学びの中心ではないという点である。
国語では、文章を読み返しながら、言葉と言葉の関係を考える。登場人物の気持ちを想像する。書かれていることだけでなく、書かれていないことにも思いを巡らせる。
社会では、出来事を一面的に理解するだけでは足りない。立場や時代背景を考え、複数の事実を結び付けながら、自分なりに意味を捉えていく必要がある。
道徳に至っては、そもそも1つの正解に収束させる教科ではない。迷い、揺れ、他者の考えに触れ、自分の考えを見つめ直すことに意味がある。
この3教科に共通するのは、「立ち止まること」に価値があるという点である。紙の教科書には、この「立ち止まる」学びと相性のよい面がある。ページをめくり返す。前の段落に戻る。線を引く。余白に書き込む。見開き全体を眺める。どこに何が書いてあったかを、紙面の位置として記憶する……。

