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突如として中国の歴史書から倭国の記述が消えた《空白の4世紀》 その直前の古代日本では何が起きていたのか

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卑弥呼政権の後ろ盾だった魏の滅亡後に「空白の4世紀」が始まった(写真:denkei/PIXTA)
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2世紀に入ると瀬戸内海東部で勢力を広げた吉備(岡山県)が勃興する。当時の交易路は日本海ルートが主流であり、この日本海側と瀬戸内海側は氷上(ひかみ)回廊と呼ばれる2つの川で結ばれた陸路でつながっていた。吉備は風水害が少ない気候と共に、氷上回廊を通じて交易を行い、勢力を伸ばした。

『後漢書』東夷伝には、永初元年(107)に倭国王の帥升が朝貢し、生口(せいこう/奴隷)160人を安帝に献上したことが記されている。吉備には、墳丘長約83メートルという弥生時代後期最大の墳墓・楯築(たてつき)墳丘墓が2世紀に築造されている。考古学者の松木武彦氏は、この楯築墳丘墓の被葬者は、最初の倭国王となった帥升と推測した。

この他に、当時の主要航路である日本海ルートを掌握した出雲(島根県)、四方を山地に囲まれ安定した稲作を行い国力を高めた大和(奈良県)、独自の文化を発展させた尾張(愛知県西部)を中心とする東海勢力があり、2世紀後半には日本では主に5つの勢力に集約された。

こうした中で、180年前後に『魏志』倭人伝で「倭国乱」と記された大規模な戦争が発生。フロンティアである東国への進出を目指して、2大勢力の北部九州と吉備は連合し、大和を加えて卑弥呼を共立した。

それまで大規模な墳墓が築造されることがなかった大和では、2世紀末から3世紀初頭にかけて前方後円墳の前身となる纒向(まきむく)型前方後円墳が誕生し、運河や巨大な建物を備えた大規模な王都が造営された。その後、出雲もこの連合政権に加わったようだ。

桜井市纒向学研究センター長の寺沢薫氏は、「倭国乱」の状態を解消するために、特定のクニが権力を持たない合議制を取る政権構想が生まれ、軍事力を持たない卑弥呼が共立されたとする。

こうして北部九州や吉備を中心として各地の首長たちが協力した卑弥呼政権が生まれ、さらに交通の要衝であり、かつ東日本に進出するのに都合がいい大和に新政府を樹立したとしている。

「親魏倭王」に任じられた卑弥呼

卑弥呼政権に対抗したのが、東海勢力である。『魏志』倭人伝には、東海勢力と考えられる狗奴国の卑弥弓呼(ひみここ)と、卑弥呼が不和であることが記されている。

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