戦乱があった1つの指標として、高地性集落の分布があるが、3世紀前半には奈良盆地と尾張を結ぶ大和街道に高地性集落が集中して確認されている。
狗奴国との軍事的緊張が高まる一方で、卑弥呼は北部九州や吉備の首長ではなく、連合政権における共立王に過ぎなかった。そのため、卑弥呼は軍事権を持たず、権力基盤は脆弱だったと考えられる。
こうした状況を打開しようと、卑弥呼は景初3年(239)に魏に朝貢を行い、明帝から「親魏倭王」に任じられ、金印・紫綬(綬は金印につける紐で、紫は最高ランクを示す)を授けられた。
「親魏」の称号は倭国と中央アジアのクシャーナ朝(大月氏/おおげつし)のみが授爵したものである。
墳丘長約278メートルを誇る巨大な箸墓古墳
『魏志』倭人伝は、邪馬台国までの道程が不正確であることが知られているが、歴史学者の岡田英弘氏は、魏の都・洛陽から邪馬台国とクシャーナ朝がほぼ等距離に記されていることを指摘した。
三国時代を迎えて不安定な中国の国内情勢に対して、卑弥呼は魏の有力な同盟国であることを演出し、「親魏倭王」という破格の称号を得たとも考えられる。
「親魏倭王」となった卑弥呼は、傀儡的な共立王から魏の後ろ盾を得た「王の中の王」となったのだ。
卑弥呼が被葬者とも考えられる箸墓古墳(奈良県桜井市)は、墳丘長約278メートルを誇るそれまでに類例のない巨大な墳墓である。そしてこの箸墓古墳がその後、ヤマト王権の支配地域に展開される前方後円墳の雛形となった。
こうしたことから近年では、ヤマト王権の初代大王を卑弥呼とする指摘もされている。以上が「空白の4世紀」が始まる直前の古代日本の状況である。

