『記・紀』の編纂には、天皇家の系譜を記した『帝紀』や、天皇家の系譜以外の歴史をまとめた『旧辞』などの史料が用いられたと考えられている。また、『日本書紀』には、33代推古天皇の時代の620年に皇太子(厩戸皇子=聖徳太子)と嶋大臣(しまのおおおみ/蘇我馬子)が『天皇記』と『国記』を編纂されたことが記されている。
これらのベースとなった『帝紀』『国記』はこれまで6世紀頃に成立したと考えられてきたが、歴史家の関根淳氏は、断片的な史料を突き合わせ、『天皇記』と『国記』が語り伝えの形式で4世紀に成立していたと推測している。
『記・紀』が成立した8世紀前半は、ヤマト王権から律令国家へ、大王から天皇へ大きく政治体制が変化した時代であり、歴史書の編纂には新政治体制に都合がいいように政治的意図が反映されたことは間違いない。
一方で、『天皇記』と『国記』は「空白の4世紀」に成立したのであれば、それらの発展形である『記・紀』には、創作的エピソードや脚色が加えられたものの、空白の4世紀の史実を反映している可能性は否定できない。そのため、『記・紀』の記述に考古学的なアプローチを加えることで、「空白の4世紀」の実像に迫ることができる。
ヤマト王権誕生前の5つの主要勢力
これまで「空白の4世紀」の時代にヤマト王権が誕生したと考えられてきたが、近年では3世紀前半~中頃にはすでにヤマト王権は成立していたとする見方が出てきている。まず初めにヤマト王権誕生までの大まかな流れを紹介する。
弥生時代に稲作が普及すると、それまで小さなコミュニティだったムラはより労働生産性を高めるために大規模化していき、やがてムラ同士が緩やかに集約されたクニが誕生する。
一方で、クニの誕生は水利をめぐる争いを引き起こし、縄文時代にはなかった「戦争」を生んだ。こうした中で各地では、リーダーシップを持った首長が統率する、より強固な組織体制が誕生した。
各地に生まれたクニグニの中でいち早く発展したのが北部九州である。中国王朝や朝鮮半島との交易によって勢力を広げた北部九州の奴国(福岡県福岡市)は、建武中元2年(57)に後漢に朝貢し、洪武帝から印綬を授けられた(『後漢書』東夷伝)。この印綬は福岡県福岡市の志賀島で発見された「漢委(倭)奴国王」の金印とされる。
