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ライフ #秀吉を天下人にした男、豊臣秀長の実像

「平蜘蛛だけは命に代えても渡したくなかった」"天下人"信長にも屈せず…松永久秀が命を懸けた茶器

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松永久秀は茶器とともに自害しました(写真:Shiro / PIXTA)
  • 真山 知幸 伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)
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久秀が命を賭けてまで、信長に渡したくなかった「平蜘蛛」とは、どんな茶器だったのか。

正式名称は「古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)」。当時、東国随一の茶釜産地である、下野国佐野庄の天明(現在の栃木県佐野市犬伏町あたり)で作られた茶釜だ。

底が浅く、胴部の丈が低くて口が広いのが特徴で、形状は平釜に分類される。蜘蛛が這いつくばった形状から、その名がついたという。

三好家が茶の湯の盛んな堺を支配していたことから、久秀もおのずと茶の湯に親しんでいたようだ。

天文23(1554)年1月28日、久秀は千利休の師として知られる武野紹鴎(たけの じょうおう)が主宰の茶会に招かれた。場所は堺の大黒庵で、豪商である今井宗久も同席している。

史料上確認できる範囲では、これが久秀にとって初めての茶会参加で、以降、茶の湯を通じて、久秀は堺の茶人や商人たちとのつながりを深めていく。

一国一城にも匹敵する「付藻茄子」は信長に献上

久秀が初めて自ら茶会を催したのは、永禄元(1558)年9月9日のこと。堺の茶人である北向道陳(きたむき どうちん)らを招いている。千利休はこの北向道陳を初めての師として茶を学び、その後に、先の武野紹鴎らに学んだ。

戦場では大胆な行動に出る久秀も、このときばかりは緊張したことだろう。この場で初めて、大事にしていた名品の「付藻茄子(つくもなす)」を披露している。

その後、奈良の茶人とも交流を深めた久秀は、永禄6(1563)年1月11日、多聞山城でも茶会を催した。京都の医師の曲直瀬道三や、茶人の松屋久政、堺の豪商である若狭屋宗可(わかさやそうか)、家臣の竹内秀勝らを六畳座敷に招いた。

このとき久秀は名品の付藻茄子のほか、平蜘蛛も披露している。得意気な久秀の表情が目に浮かぶようだ。

千利休の高弟・山上宗二が天正16(1588)年に記した茶道具の秘伝書『山上宗二記』によると、「物を悉く飾り付けることが出来るような数寄人」のことを「大名茶湯」、「茶道具の目利きに長けて茶の湯の師匠をもって生計を立てる者」のことを「茶湯者」といった。

数多くの名物茶器を所有する久秀はまさに「大名茶湯」に分類されよう。名器のうち少なくとも10点は織田信長に献上している。

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【命に代えても渡したくなかった】

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