先に触れた「付藻茄子」についても、信長が上洛の際に忠誠の証として献上。そのときに信長から大和国を任せられたことから、付藻茄子は「一国一城にも匹敵する名物」とも言われた。
久秀なき大和国、やがて秀長へ
それだけ茶器に価値を置いた信長だからこそ、久秀の2度目の裏切りさえも、平蜘蛛と引き換えに許そうとしたのだろう。だが、久秀からすれば、平蜘蛛だけは命に代えても渡したくはなかったようだ。
よく知られている「久秀は平蜘蛛とともに爆死した」という逸話は、自害の翌日に、久秀の首が安土城へと運ばれていることを考えても、伝説だろう。
創作の多さが指摘されている『川角太閤記』にて、久秀の最期について「頸は鉄砲の薬にてやきわり、みじんにくだけければ、ひらくもの釜と同前なり」とあったことから、「久秀の首と平蜘蛛が鉄砲の火薬によって、微塵に砕けた」という逸話が広がり、それがよりインパクトの強い爆死の噂となって、後世で広められたようだ。
久秀にとって平蜘蛛は、単なる茶器ではなかった。天下人・信長にも屈しなかった、己の矜持そのものだったのかもしれない。
久秀が散った大和国は、その後、久秀と長年大和の覇権を争った筒井順慶が治めることになる。
しかし順慶は天正12(1584)年、わずか36歳で病死。翌年、秀吉は順慶の養子・定次を伊賀へ移封し、代わりに弟の豊臣秀長を大和郡山城へ入れた。
秀長はこうして、大和・紀伊・和泉合わせて100万石を超える大大名となり、兄・秀吉の天下統一を支える要として畿内に君臨することになる。
【参考文献】
太田牛一著、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
谷口克広『信長と消えた家臣たち 失脚・粛清・謀反』(中公新書)
杉山博編『多聞院日記索引』(角川書店)
宮島敬一著『浅井氏三代』(吉川弘文館)
河合敦著『豊臣一族 秀吉・秀長の天下統一を支えた人々』(朝日新書)
金松誠著『松永久秀 シリーズ・実像に迫る』(戎光祥出版)
竹内理三編『史料大成多聞院日記〈全5巻〉』(臨川書店)
河内将芳著『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(戎光祥出版)
真山知幸著『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(日本能率協会マネジメントセンター)

