国庫補助による学校給食制度が成立したのは、1932年のこと。これまた欠食児童の救済のためである。
29年に発生した世界恐慌の影響により、貧困による欠食児童が全国的に増加していたのであった。学校給食の起源は、欠食児童の救済にあったのだ。
41年12月に太平洋戦争が始まり、敗色が濃くなると、学童疎開などにより、都市部での学校給食は中止される。戦争により児童らは空腹となったが、それに伴い、児童の身長や体重は当然、低下していった。
終戦後、アメリカの物資寄贈で給食が再開
そして45年8月、日本は終戦を迎えた。敗戦直後の日本の食料事情は劣悪であり、餓死者や子どもの犯罪が相次いだ。そうした状況の中、物資寄贈の申し出をしてくれたのが、アメリカのアジア救済公認団体「ララ」だ。
ララからの物資寄贈により、学校給食再開の目処がついた。給食の内容はパンや脱脂粉乳など。最初は主に都市部の児童に給食が提供され、頻度は週2回だった。
それが48年には週5回にまで増えることになる。翌年にはユニセフ(国連児童基金)から無償で脱脂粉乳の提供があった。50年になると都市部の小学校において、今ではおなじみの「完全給食」が戦後初めて提供される(脱脂粉乳のみ、味噌汁のみなどのメニューは「副食給食」と呼ばれた)。
内容は、パン(アメリカから寄贈された小麦粉で作られた)・主食・おかず・ミルク。この完全給食はその後、広まりを見せていく。
51年、サンフランシスコ講和条約が調印され、日本は連合国による占領から脱する。
それまで日本において給食用物資の主な財源となっていたのはガリオア資金(アメリカの占領地域救済政府資金)であったが、日本の主権回復により、その援助が終わったのだ。大蔵省は財政難から給食の国庫補助の打ち切りを主張した。
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【セーフティネットでもある学校給食が存続するために】
