流山はなぜ"人口急増の街"に変貌?「流山おおたかの森S・C」から考える、商業施設の生みの親と育ての親の重要さ

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流山おおたかの森S・C
流山の人口急増・人気の一因である「流山おおたかの森S・C」(筆者撮影)
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新しく、整然としている街・流山おおたかの森。一度訪れると、ファミリーが引っ越しを決意するのもわかるほど、魅力に溢れた街だ--。
毎回、さまざまな街にある商業施設を、「どのようにして街を変えたか」という観点からレポートする本連載。今回は「流山おおたかの森」周辺を歩く。

前編では、「流山おおたかの森S・C」が長年にわたって拡大を続けてきたことを紹介した。「流山おおたかの森S・C」は、流山市の人口が増加した一因になっている。

なぜ、「流山おおたかの森S・C」を手がける東神開発は、このような街づくりができたのか。理由を探るべく、流山の街の歴史から振り返っていこう。

田畑や山林の時代が長かった

現在の流山市にあたる地域は、昭和30年代半ばに住宅が開発され始めるまで、大部分が田畑や山林であった。住民の半数以上が農業を行っていた。

明治中期、江戸川や利根運河の水運によって流山の街はにぎわっていく。

やがて輸送手段が鉄道に移り、水運は衰退する。1896(明治29)年には日本鉄道土浦線(現・JR常磐線)が開通した。その後も、1911(明治44)年に県営鉄道野田線(現・東武アーバンパークライン)、1916(大正5)年に流山軽便鉄道(現・流鉄流山線)が開通。しかし、現在の流山市にあたる地域には駅ができなかった。

終戦後に町村の合併が進み、1951(昭和26)年に流山町、八木村、新川村が合併して「江戸川町」となる。翌年に町名が「流山町」に変更された。

昭和30年代には大型の団地が建設され、人口が急激に増加する。1967(昭和42)年に市制が施行され、千葉県で20番目の市として「流山市」が誕生した。

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