「先生は、 決して無力ではない」MIT卒・日中英トライリンガル華僑、熱く語る理由 教育革命家が先生を応援する理由、目指す未来

日中英トライリンガルが、静かに感じていた怒り
――白川さんは、なぜ教育事業に興味を持つようになったのですか。
私の一族は華僑です。6歳で来日後、日本国籍を取得し、高等学校まで日本で教育を受け、大学から米国に留学することになりました。なぜ、日本の大学に行かなかったのか。それは平たく言ってしまうと日本社会で女性をやりたくなかったからです。私は外国人だし、そのまま日本にいても明るい未来が描けなかった。日本の公教育にも懐疑的で、金八先生のような熱血先生のドラマを見ても共感できないタイプでした。私自身は中学から私立の学校に通い、いい思い出もあるのですが、日本の普通の公立学校で学んでいる子どもたちは、息苦しい教育を受けているように見えました。いま振り返ってみると、教育に対して静かな怒りをずっと持っていたように思います。
――その静かな怒りは、学校の先生になるという方向には向かわなかったのですか。
学校の先生は、私には向いていない気がしていたのです。ただ、教育自体にはずっと興味がありました。それは教育を変えるだけで人の人生は変わる、という信念があったからです。私たち華僑は、勉強してスキルを身に付ければ自分の運命を変えることができるという考えを、もう何千年も受け継いできました。体に染み込んでいると言っても過言ではありません。だから、勉強するのは当たり前。しかし、日本の小学校では「勉強好きは子どもらしくない」と異端児扱いされました。校則などについて、私が異議申し立てをしても、その理由を理屈で説明してくれません。むしろ、理屈を持ち出すほうが悪い。考えることが悪いように扱われるのです。小学校時代は、そんな理不尽なことを受け入れるのが我慢できませんでしたし、理不尽を受け入れたら負けだと思っていました。
――その後、横浜のフェリス女学院で中高を過ごし、米国の名門大学に留学されます。
フェリス女学院では、かなり自由に学校生活を送ることができました。卒業後、米国に進学し、デューク大学で学ぶことになります。順調にいけば、大手コンサルティングファームを経て、MITスローン経営大学院に進み、その後は米国に定住するキャリアを歩むはずでした。しかし、私が学んだMITの同級生の中で面白いなと思う人たちは、起業家を目指す人たちばかり。その中で元教員や教育NPO関係者など教育分野でチェンジメーカーになりたい人たち、教育に対して熱い気持ちを持つ人たちと多く出会ったのです。当初は経営コンサルタントとしてキャリアを築いていこうと思っていたのですが、考えてみれば、そこにそれほど強いパッションがあるわけではない。それよりも、昔感じていた教育に対する怒りをもとに、私も社会をチェンジメイキングしてみたい。もし起業して失敗しても、どうにかなるという自信もあり、それなら私も起業してみようと思ったのです。

――経営大学院在学中にはMITの「創造しながら学ぶ」という教育理念を英語学習に取り入れた英語習得メソッド「Native Mind」を開発し、MITソーシャルインパクト財団より出資を受けていますね。
自由になる手段としての英語を身に付ければ人生を変えることができる。だから、みんなも英語を身に付けて人生を変えてほしい――。そんな思いで始めました。そして、この事業から派生する形で2015年にタクトピアという教育コンサルティングの会社をつくることになります。17年には「Future HACK」を創設し、現在までに世界30カ国超、累計1万5000人の学生に対してアントレプレナーシップ教育を行い、さまざまな起業家育成プログラムを提供してきました。
「教員をグローバルリーダーに」
――そこから18年に始めたプロジェクトが、教員をグローバルリーダーにすることを目指した「Hero Makers」ですね。
目先の結果ではなく、大きな視点で日本の教育を変えるには何が有効なのか。そのいちばんの手立てが、先生を変えることだと思ったんです。その頃偶然、経産省の方と出会いました。その方に教育のICT化といっても、教える側がマインドセットしなければ、単にタブレットを配っても文鎮化してしまうよ、と訴えたのです。面白いもので、学習意欲のある先生の下で学んでいる子どもほどよく学び、その反対は先生がむしろ学生に悪影響を及ぼしてしまうんです。先生をマインドセットするだけで、子どもたちも変わり、教育も変わる。その信念を基に、もっとやる気のあるよい先生たちを増やしていきたい。そのために立ち上げたのがHero Makersであり、結果として経産省の「未来の教室」実証事業にも採択されることになったのです。