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つれづれの読書で、「論語読みの論語知らず」という一句に出くわした。若い人は『論語』なんて知らないだろうから、何のことかわかるまい。
読書の貴重な成果を実地に活用できない愚人を意味する。別に書物は『論語』に限るわけではない。よく考えてみると、現代ではなおさらいっそう、含蓄ある格言のような気がしてきた。
まず字面の直訳でも、十分に通用しそうである。『論語』は中国儒教の四書五経の一つ、とりわけ中国学をやりながら、マジメに経書・経学を勉強してこなかった筆者には、ピタリの格言だ。実際、『論語』は文字を読んだだけで、中身の意味を知ろうと思ったこともないから、筆者など「論語読み」ですらないかもしれない。このIT万能の世の中、マジメに読書すべし、というだけでも、十分に意味がある。
しかし筆者自身のことは、どうでもよい。もう少し社会的な事情について考えてみよう。
読む=素読だった時代
この格言がいつできたかは、よく知らない。しかし筆者も含め、われわれが受けてきた教育では『論語』など読まなかったから、その時代でないのは確かである。しかも四書五経・中国に限らず用いる言い回しだから、『論語』はいわば代表・典型であった。四書五経を読む漢学が、学問教育の主流だったころの話になる。江戸時代の昔にまでさかのぼらなくとも、それがなおあたりまえだった以前のことにはちがいない。
そして当時の勉強・学問の実践とは、とりもなおさず「読む」ことだった。そこが重要である。「論語読み」というフレーズも、その点と切り離せない。その「読み」とは、いわゆる素読である。
素読も現代では、もはや死語だろう。四書五経を先生が朗読した後について、ひたすら真似て読む。もちろん意味内容の説明はないから、生徒には何のことかわからない。しかしかまわず、とにかくくりかえし声に出して読んで覚えてしまう。「論語読みの論語知らず」というのは、意味もわからないまま朗誦(ろうしょう)し、読めるようにはなったけれども、意味が依然わからない、というところから来ており、素読の名残りではあった。
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