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政治・経済・投資 #歴史の論理

法事と読経で感じる東アジアの教育の価値 身体的学習の意味

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  • 岡本 隆司 早稲田大学教育・総合科学学術院教授

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お盆を過ぎると痛感する。近親を彼岸に見送ることが、とみに多くなってきた。そういうお年ごろなのであろう。今後もどうやら、減りそうもない。くりかえすうち、遠からず自分の番も巡ってくる。人生の逃れられぬ宿命にほかならない。

日々の生活・暮らしに関わることながら、そうした葬祭について、ほとんど知るところがなかった。歴史をなりわいにしている身、史実としての宗教・仏教は、関連の知識をつけないわけにはいかない。けれどもしょせんは頭だけ、机上の空論というべきである。

だから実地の慣行・しきたりには暗い。実家の仏事も同じ、折々の身辺の諸事は煩わしいと思うだけで、関心が持てなかった。恥ずかしながら、父母の元気な頃は、それでもよかったのである。

お経に感じない違和感

ともあれ十数年前に父を亡くして以来、そんな仏事に携わる機会がふえ、当然ながら読経をよく聞いた。導師の読経は、法要のクライマックスである。仏事を知らないのだから、お経もいわずもがな。聞いていても、何をいっているのか、よくわからない。

しかし違和感は、あまりない。市バスに乗り合わせた外国人観光客が大声でしゃべっている外国語のほうが、よほど耳障りである。聞きとりづらいことでは、両者かわらない。ここが不思議なところで、要するに習慣というべきだろうか。お経のほうはすんなり耳に入ってくる。

ご存じのとおり、お経は漢字で書いてある。仏教はインド伝来ながら、日本に伝わったものはすべて中国経由、漢訳の仏典ばかりである。もちろんその内容の正しい理解には、オリジナルのインド語・インドの知識が必要であって、読経する僧侶は、その素養もつけていなくてはならない。

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