選挙後の“アントニオ猪木”の活かし方とは?
ムーギー:選挙期間中ではなく、議員としての使い方という意味では、どんな思いをお持ちですか? 北朝鮮外交のところで議員、党としてバックアップして応援してほしいという思いをお持ちですか? 維新の会に注文をつけるとしたら、何かございますか。
猪木:要するに猪木をフリーな立場にしておいたほうが得じゃないですか、ということです。なぜかというと、結局、それぞれのキャラクターがありますから。芸能プロであれば全員が全員一緒なわけじゃない。歌のうまい人もいるし、個性が違う。そういう意味で10人寄ればみんな意見が違うのが当たり前でしょう。ただし私は妥協という意味じゃなくて、話し合って理解し合えるとは思っています。
ムーギー:そういういった意味で北朝鮮外交は、いろんなグループが違う動き方をしていて、政策のコーディネーションがとれてないというのが現状だと思うのですが、外務省や行政側から猪木さんに「勝手に動くな」といった圧力はあるのでしょうか。
猪木:それはないですよ。
旧ソ連との、民間外交の成功体験
猪木:昔の話をすると、ソ連の鉄のカーテンが下がっていた当時は、観光も旅行も制限されていました。その時代は政治家ではない立場で、現地に行っていました。
ムーギー:政治家にはなってないのに、当時のソ連まで行こうと思われたのは、興行的な理由だけではないですよね? 将来の出馬へ向けた布石だったのでしょうか?
猪木:当時は、そこまでは考えていません。スポーツ交流を通じて、少しでもソ連の鉄のカーテンを上げたい。そのために向こうのアマチュアの選手をプロにしました。
ムーギー:ハシミコフ選手やボクシングのユーリー・アルバチャコフ選手でしたよね。
猪木:その後、すぐ議員になり、議員外交になっていくんですけどね。先方の要人と次々に会うことができました。
そのあたりの話は、佐藤優さんが本に書いています。当時、彼が大使館にいて、通訳をやってくれました。彼は、日本の外務省が普通では入れないクレムリンに行き、いろいろな人と対等に話ができました。残念ながら、当時の日本大使は、佐藤さんの活かし方がわかっていませんでした。
ブラジル大統領、カストロ議長との交流
ムーギー:猪木さんのそういったところ、つまり、どこの国の要人でもガバっと入って信頼関係を築ける能力は、どういうふうに養われたんですか。
猪木:昔、ブラジルにフィゲイレードという大統領がいました。最後の軍政の大統領です。俺にチャレンジしてきて、その後、俺の弟子になった男が、フィゲイレードさんの護衛官をやっていたのです。
最初に知り合ったのは、彼が大統領になる前でしたが、それ以来、ものすごく密に付き合わせてもらいました。いつもブラジルに行くと補佐官が待っていて、大統領と直接会っていました。
ほかにも、私が議員になってすぐに、カストロさんとお会いしました。
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