天正14年(1586)5月、徳川家康は豊臣秀吉の妹・朝日と結婚します。秀吉に臣従する決断をした家康は秀吉の妹を正室に迎えることによって、豊臣政権下における自身の立場を有利なものにしようとしたのでした。
家康は上阪し秀吉と対面するに際し、身の保障を求めます。それを受けて人質として三河国岡崎城に遣わされたのが、秀吉の実母・大政所でした(10月18日)。
家康に仕えていた松平家忠の日記『家忠日記』(天正14年10月17日条)には「秀吉御母大政所、家康様 御上洛候 人質」とあります。家康は大政所の三河到着を見たうえで、上阪の途についたのです(家康が上方から三河に帰還した後に、大政所は大坂に向けて出立することになります)。
秀長による豪華な接待
同書によると、同月26日、家康は大坂に到着します。家康の「御宿」は「美濃守也」とあります。「美濃守」とは秀吉の弟・秀長のことです。つまり、家康は秀長の屋敷に宿泊したのでした。これは秀長が家康の取次を務めていたためと考えられます。
『多聞院日記』(戦国時代~江戸初期の奈良興福寺 多聞院院主の日記)にも家康の上洛についてのことが記されていますが、それによると家康は10月24日に京都に到着したとあります。家康は「六万騎」ほどにて「在京」し、その後、大坂に向かったというのです。
同書からは「宰相殿」(秀長)が大和国から春日社の神人や猿楽衆を招いていたこと、大和国の寺院から酒や肴が秀長側に送られていたことがわかります。そうしたもので、秀長は家康を接待しようとしたのです。


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