一方で、父親は比較的冷静だった。「これだけの学力があるのに、ここで私立へ進むのはもったいない。もう一度、東大理三を目指してもいいのではないか」。少なくともTさんには、その程度の温度感に見えたという。
「さすがに2浪は嫌でした。もう1年やっても、また落ちるかもしれない。A判定の常連だった自分が続けて落ちたということは、試験との相性もあるのだろうと思っていました」
それまで敷かれたレールを歩いてきたTさんが、初めてはっきりと「嫌だ」と意思を示した。その直後のことだった。
ナイフを手にした母「東大に行きなさい」
母親が、泣きながらナイフを手にして現れた。
「私たちの言うことを聞きなさい。東大に行きなさい」
Tさんの記憶では、母親はそう迫ったという。
母親は、それまで暴力的な姿を見せたことなど一度もなかった。Tさんにとっては、むしろ「優しい母親」だった。父親はすぐに「何をしているんだ」と止めに入った。すると母親は、その場に泣き崩れた。
「受験期にも、強くプレッシャーをかけてくるタイプではありませんでした。僕がずっとA判定だったから、受かると思っていたのかもしれません。だからこそ、ショックだったのかな……本当に怖かった。人生で一番ビビりました」
何が母親をそこまで追い詰めていたのか。その答えを、Tさんはいまも母親から聞けていない。
ただ、大人になって見えてきた事情はある。
父親は代々続く医師家庭の出身で、親族には東大医学部の卒業生が多かった。結婚によって、その医師家系の一員となった母親の肩には、Tさんにも、あるいは母親自身にも見えていなかった重圧が、長い年月をかけて積み重なっていたのかもしれない。
「母親が、そこまでプレッシャーを感じているとは思っていませんでした。ずっと、優しい両親だと思っていたので」
もちろん、どれほどの事情や重圧があったとしても、ナイフを持ち出した行為が正当化されるわけではない。それでもTさんは、あの日の母親を、ただ「怖い人」として切り捨てることもできずにいる。


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