ナイフを持ち出したあの日の出来事をきっかけに、家族では何度も話し合いが行われた。
2浪して東大理三を再受験するのか、それとも合格していた私立医学部へ進むのか。毎日のように話し合った末、Tさんは2浪せず、私立大学の医学部へ進学することに決めた。
現在もその私立大学で、医師になるための勉強を続けている。
両親との関係を一言で説明するのは難しい。それでも、いまのところ家を出るつもりはないそうだ。そして、医師になりたいという気持ちは、誰に言われたからでもなく、自分の中に確かにあるのだという。ただ、心の奥には、いまも答えの出ない問いが残り続けている。
「東大理三に、どれほどの価値があるのかは、僕にはわかりません。あのとき母親は、なぜそこまで私に東大を求めたのだろう、と考えることはあります」
“親の期待に応えられなかった”その先の人生
取材をしながら、私は何度も「この人は、物事を俯瞰して見ることができる人だ」と感じた。
Tさんは、自分に起きた出来事を時系列に沿って整理し、自分がどんな気持ちだったかを素直に吐露しながらも、母親が置かれていた立場や、父方の家系から受けていたかもしれない重圧まで、少し離れた場所から分析していた。その客観性は、ときに驚くほどだった。
母親にナイフを向けられたという話をしているのに、Tさんは誰かを一方的に責めることも、激しい言葉を使うこともない。もっと怒ってもいいのではないか。もっと悲しんでも、感情的になってもいいのではないか。話を聞くこちらのほうが、そう思ってしまうほど理性的な語り口だった。
もちろん、それがTさんのもともとの性格なのか、自分の身に起きたことを受け止めるために身につけた姿勢なのか、外から決めつけることはできない。ただ、その卓越した頭の良さと、自分自身の感情まで一歩引いて見つめる冷静さは、どこかでつながっているようにも感じられた。
代々続く家系。親族から向けられる目。そして、母親が一人で抱えていたのかもしれない、目に見えない重さ。
幼いころから「神童」と呼ばれ、何の不自由もなく育ってきたように見えた少年の人生は、大学受験での不合格をきっかけに、家族の内側にあった亀裂を露わにした。
Tさんは、家族が用意した「東大理三」というレールからは外れた。だが、医師への道から降りたわけではない。むしろいま、誰かに決められた一本道ではなく、自分で選び直した道を歩き始めている。


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