また八木氏を象徴するのが八木・宇田アンテナである。戦時中の42年、シンガポールで鹵獲(ろかく)されたイギリスのレーダーを調べた際、技術伍長のノートに「YAGI」という文字が記されていた。そこで日本側は初めて、自国で生まれたはずのアンテナ技術が海外で実用化されていたことを知ったという逸話が残っている。
なお、特許出願が八木氏単独だったことから「YAGI」「八木アンテナ」の名称が定着したが、同じ研究室で研究を進めた宇田新太郎の功績も大きく、現在は「八木・宇田アンテナ」と呼ばれる。
この逸話が示すのは、「日本は発明が弱かった」という単純な話ではない。むしろ、優れた発明を生み出す力と、それを評価し、実用化し、産業として育てる基礎工業力、技術力、そして生産力をどう結び付けるか、なによりその人材をこれからどう育成させるかという問題だったのではないか。
敗戦を経験した八木氏は、戦後のアマチュア無線再建にも携わった。焼け野原からの再出発は、単に無線局を復活させることではなかった。物量だけでなく、技術面でも大きな差があったことを痛感したからこそ、技術を謙虚に学び、自ら試し、そして次の世代へ伝える――。そんな技術文化を、日本に根付かせることでもあった。こうした技術文化が、その後の日本の技術立国への歩みを支える原動力の一つとなったことは間違いないだろう。
電子技術立国を支えた子どもたちの「好奇心」
戦後の日本で電子技術が急速に発展していく背景には、企業の技術開発だけでなく、それを支える若者たちの存在があった。トランジスタの登場はラジオなど電子機器の小型化・ポータブル化を進め、子どもたちにとって電子技術を身近なものにした。
ラジオを聴くだけでなく、分解し、部品を集め、自ら組み立てる。「ラジオ少年・少女」とも言われたラジオに憧れた子どもたちの中から、後に電子・通信などの技術分野へ進む人材も生まれていった。
1957年にソ連が打ち上げた人工衛星スプートニク1号、そして60年代のアメリカのアポロ計画は、こうした少年・少女たちの好奇心をさらに刺激した。当時のアマチュア無線家が、スプートニクが発する電波を実際に受信したという話も少なくない。
興味深いのは、最初からドップラー効果を確認しようとしたのではなく、衛星が近づくと周波数が高くなり、遠ざかると低くなる現象を聞いて、「もしかしてドップラー効果ではないか」と考え震えるほど感動したという逸話を、ベテランの無線家から筆者も聞いた。ドップラー効果とは、音波や電磁波などの波の発生源が移動したり、その観測者が移動することで、互いに近づくときには波長が縮み、遠ざかるときには波長が伸びて観測される現象のことだ。
教科書で学んだ知識を、自分のアンテナと受信機、そして自分の耳で確かめる。そこには、知識を覚えるだけではない科学の入り口があった。


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