「宮田洋容(みやたようよう)」
芸能人の自宅の電話番号が電話帳で公開されていたのだから、長閑(のどか)な時代である。「学がない自分がうまいモノを食べるには、芸能界に入るしかない」と考えた羊かんさんは、思い切って宮田洋容氏に電話をかけた。
すると本人が出て、「うちまで来るなら、来てごらんなさい」と言われた。ただし、身元の怪しい者を招くわけにはいかないから、保証人が必要だと言う。電話を切った羊かんさんは、すぐに中学の担任に連絡。校長が推薦状を書いてくれることになり、それが届くと洋容氏のもとを訪ねた。
「青梅街道に近い馬橋っていうところに先生の家があってね。神楽坂から歩いて行ったよ。その頃、先生はすごく売れてたんだけど、ちょうど弟子がいない時だったから、渡りに船でね。すぐカバン持ちになったんだ」
1953年の秋、14歳の羊かんさんは、師匠の家に住み込みの内弟子となった。「宮田羊かん」という芸名の名付け親は、師匠。最初は漢字で「羊羹」だったが、「見た目が硬い」ということで、「羊かん」になった。
楽器をエア演奏していた修業時代
内弟子の生活も、楽ではなかった。自分の部屋はなく、寝床は玄関。仕事を終えた洋容氏が深夜に帰宅する際には、石畳を歩く音を聞きつけて玄関の扉を開け、「おかえりなさい」と迎えなければ、足蹴にされた。この頃の影響で、今も微かな音で目が覚めるという。
内弟子の主な仕事は師匠の身の回りの世話で、師匠について地方も巡った。その間、給料や小遣いもなく、小学校3年生から故郷を離れるまで続けていた豆腐売りの貯金が、唯一、自分で自由に使えるお金だった。
転機になったのは、3年目。師匠から上野東京芸能公社に預けられ、小さな仕事を請けるようになった。声がかかれば、なんでもやった。例えば、9人編成のジャズバンドでピアノが足りないと言われれば、ピアノの前に座って弾いている振りをした。なんの楽器も弾けないのに、ギターの代役も、ベースの代役もした。
もちろん観客にバレることもあり、「それが恥ずかしくなって」、バンドのメンバーに楽器を教わるようになった。そのうち、演奏すること自体が楽しくなり、自分で勉強してピアノ、アコーディオン、ギター、ベースが弾けるようになった。


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