防災服や控えめなメイクは「被災地という状況にふさわしい格好をしよう」という、状況本位の配慮として受け取られやすい。一方、BGMや映画的なカット割りは、「誰に向けた配慮なのか」が見えにくく、発信者側の印象づくりに向けられた配慮として解釈される余地を残してしまう。
念のため付け加えると、これは作り手の内心の意図の問題ではない。様式の選び方によって、視聴者側にどちらの解釈をされやすいか、という受け手側の認知の傾向の話である。
なぜ視察動画は「自分本位」と解釈されやすかったのか
BGM付きの映画的編集は、なぜ「自分本位」の配慮として解釈されやすかったのか。ここには様式上の要因が重なっている。
第1に、人は状況ごとに無意識のうちに「こうあるはずだ」という期待の型を持つ。被災地の視察であれば、多くの人は「淡々と、実務的に、感情をあおらない形で」報告されることを期待する。この期待から外れた振る舞いは強く記憶され、評価を大きく動かすことが知られている(※2)。
BGM付きの映画的編集は本来「感動を呼ぶプロモーション映像」の文脈で使われる手法であり、それが「深刻な被害報告」に持ち込まれたとき、期待からの逸脱として強く知覚される。
第2に、様式に注がれた労力の「向き先」も解釈を左右する。様式にかけた手間・儀礼のコストは、無言のうちに本気度のシグナルとして読み取られてしまう(※3)。
今回の動画は制作に相応の手間がかけられているが、そのコストが「危機対応としての儀礼(簡潔さ、実務性、抑制)」にではなく、「感動を誘うプロモーション映像」の方向に振られてしまった。コストをかけたことではなく、その向き先を誤ったのである。


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