最終的に、明治期を通じたコレラの死者数は、37万人にも達した。これは日清・日露戦争による死者数をも上回る。
しかし、コレラの流行が続く最中の1890年代、九州で新たな脅威が広がり始めていた。赤痢である。
明治政府の衛生行政は、あくまでコレラを最優先に組み立てられていた。明治13(1880)年の伝染病予防規則は、コレラ・腸チフス・赤痢など6種の伝染病について、患者の届け出と隔離を義務づけたものだったが、実際の運用は圧倒的にコレラ偏重で、赤痢は後回しにされがちだったようだ。
いち早く警鐘を鳴らした後藤新平
愛媛県では、隔離施設(避病院)の新設が赤痢の流行では動かず、コレラの大流行でようやく動いた。また、東京では常設の伝染病病院というインフラ自体が、コレラ対応を主眼に設計されている。
この歪みにいち早く警鐘を鳴らしたのが、後年に内務省衛生局長を務める後藤新平である。明治25(1892)年、兵庫県の町村長・医師を前にした講演で、後藤はこう指摘した。
コレラは致死率こそ高いが発症から死までが早く、社会が負担する期間は短い。対して赤痢は、致死率こそコレラに劣るものの、病状が数週間にわたって長引くため、経済的にはむしろコレラより深刻な損害をもたらす……というのである。
翌明治26(1893)年には、済生学舎(現・日本医科大学)の創設者である長谷川泰も同様の講演を行い、「経済的な損害で見れば赤痢のほうがコレラよりよほど深刻だ」と訴え、時の内務大臣の認識不足を名指しで批判している。
コレラ対策に人員も予算も割かれ続けたことも一因となり、赤痢は九州地方を皮切りに、約10年かけて東北地方まで広がっていくような大きな流行を引き起こしたと考えられる。「コレラにばかり目を向けているうちに、足元で赤痢が広がっていた」というのが、明治期の衛生行政の実情だった。


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