また、その2日後には新潟で約700人が暴徒と化した。ある男が川辺で散薬を使っている姿を見られたことから、「毒物を川に投入している」とデマを流されて、大騒ぎになった。巡査がその男を連行して、事情聴取をしているうちに、群集が警察署を取り囲み、竹やりや鳶口(とびぐち)を振り回して、署を破壊し始めたというから、ただ事ではない。
騒動はこれでもまだ収まらず、興奮した民衆は、連行されていた男を撲殺。そのうえ、商人の家を数軒と医師の家2軒を襲撃して、さらに避病院、検査所まで破壊。13人もの死者が出る騒ぎとなった。
患者を隔離する避病院の環境が問題に
このようなコレラ一揆は新潟を中心に、明治12年だけで24件も起きている。
毒物を川に流したと勘違いされた男が襲われたのはまだ理解できるとしても、警察や医師まで襲撃されたのは、なぜなのか。
それは、彼らが抗議していた次のような内容から推測できる。
「コレラ患者を避病院に入れず自宅療養とすること」
「コレラ死者の葬儀を自分で行うこと」
「コレラ予防のため売買禁止になった果物の売買を許すこと」
上記を踏まえると、民衆はコレラに対する政府の対策の不備ではなく、コレラの対策をすることに対して、反感を抱いていたことがわかる。一体、なぜなのだろうか。
その理由として、コレラ患者を隔離するための避病院の環境が、あまりにも劣悪であったことが挙げられる。患者はバラックの板囲いに入れられて、治療もほとんど受けないまま、死亡していくことがほとんどだった。隔離されたが最後、悲惨な末路が待っていることが、人々の間で浸透していたのである。
また、警察や医師の消毒・隔離を行う態度が、あまりにも強硬だったことも、反発を生むことになった。なにしろ、コレラの疑いがあれば、警察たちは、土足で家に踏み込んでくるのだ。明治15(1882)年には、こんなチョイト節が流行した。
「いやだいやだよ じゅんさはいやだ じゅんさコレラの先走り チョイトチョイト」
「じゅんさ」とは、「巡査」、つまりコレラ患者に乱暴を働いた人々のことだ。茶化しているが、不気味な節である。感染を防ぐためのコレラ対策も、国民にとっては、恐怖でしかなかった。


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