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ライフ #戦う哲学者の晩年の独白

戦う哲学者が脳出血を経て行き着いた「死んで、かつ死なない」境地…20歳から60年恐れた「死後の永遠の無」は錯覚だった?

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中島義道 哲学者
以前は部屋に油絵作品がたくさん置かれていたが、「もう描いていない」という(写真は2013年の取材時のもの。撮影:風間仁一郎)
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よく考えれば、ほんとうにそうなのです。我々は普通、ここに「私」がいて、体の中の痛みは自分のもの(主観)だけれども、見えている向こう側の景色は世界の側(客観)にあると思っていますが、どうもこの「主観客観図式(私と世界を切り離す図式)」は決して当然ではないのです。

「他人も自分と同じように考えている」ということすら、自明ではありません。

「客観的時間」がなければ「死後の永遠の無」もない

カントや道元が言うように、世界が「私」の心であるならば、人々が恐れる「死(死後の永遠の無)」というのは、結局のところ、客観的な「時間」が存在するという錯覚から生まれていることになります。

客観的な「空間」はどうもありそうな気がしますが、客観的な「時間」はそうとう怪しい。

このあたりを一番よく考えている西洋の哲学者はベルグソンですが、時間は「長い」「短い」などと空間化しなければ語れません。

時間の帯みたいなものをイメージしてしまいますが、誰も時間を見たことはないし、「1秒」と「1メートル」とはあり方が全然違うように、時間が空間でないことは知っているわけです。でも、空間化しない時間というものは、イメージが湧かなくて考えられないのです。

私はこれまで、死んでからずっと永遠に「死んでいる状態(無)」が続くことを考えて身震いしていました。

しかし、それも時間を空間的に、終わりなく続く帯のように考えているからであって、全世界も一生も、ほんとうは「一瞬」かもしれないのです。それを観念と言語の力で、1年とか100年とかに引き延ばしている感じがします。

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