一方で、人口は急速に増えていた。1955年に6万8363人だった人口は、1965年には16万35人となり、10年間で約2.3倍に増加している。東京への通勤者が流入する、典型的なベッドタウンだった。
こうした状況を踏まえ、報告書は「消費センター的地区」を確立し、「大松戸市」へ発展させることを目標に掲げた。市は、人口が増えるだけのベッドタウンではなく、人が買い物に集まる商業都市へ転換しようとしていたのである。
②小学校を売って、百貨店を呼んだ
松戸市は、この構想を実現に移そうとする。1963年から松戸駅西口地区の再開発事業に着手し、地区内にあった市立中部小学校を移転。その跡地を、商業振興の核となる施設として活用する計画だった。
しかし、商業施設の誘致は思うように進まなかった。三菱地所の社史は、その理由を次のように記している。
「松戸市が巨大な商業集積をもつ東京に近すぎるという点や柏市の発展などから、駅前の好立地であるにもかかわらず進出をためらうケースが多く、商業施設誘致は難航していた」
東京に近く、柏も成長している。企業から見れば、松戸に大型商業施設を出店する魅力は決して大きくなかった。
そこで松戸市は1971年、三菱地所へ開発協力を依頼する。三菱地所は商業施設を中心とした複合ビルを計画し、核テナントとして伊勢丹に出店を打診した。
では、なぜ伊勢丹だったのか。伊勢丹の社史には、その理由が記されている。
「世田谷のショッピングセンター計画で、当社と三菱商事の提携が進んでいたことや、従来からの三菱銀行との取引関係など、三菱グループとのかかわりが深かったことも一因であった」
つまり、松戸市が伊勢丹を名指しで誘致したというより、開発を担った三菱地所と伊勢丹の企業間関係から、核テナントとして伊勢丹が選ばれたのである。

