理由は、その力があまりに強力だからだ。
プラトンは著書『国家』のなかで、国を治める「哲人王」を育てるための、長い教育課程を描いている。おおまかにたどると、こうなる。
若いうちは、音楽や文芸、体育で人格の土台をつくる。20歳を過ぎてから、算術や幾何学、天文学を学ぶ。そして、弁証術を本格的に学ばせるのは、30歳を過ぎてからだ。さらに実務の経験を積み、50歳を過ぎて、ようやく統治にあたる。
なぜ、弁証術だけが、これほど後ろに置かれているのか。
プラトンは考えた。倫理的に成熟していない若者が、先に「疑う技術」だけを手にしたら、どうなるか。あらゆる価値や規範を疑い、法も慣習も善悪も相対化し、やがて何も信じられなくなる。破壊的な懐疑に陥ってしまう、と。
思考の、向ける先を選ぶ
そうなれば、弁証術は真理への道ではなく、詭弁や自己陶酔の道具に成り下がる。
プラトンには、師にまつわる苦い記憶も背景にあったのだろう。師ソクラテスは、若者に次々と問いを投げかけ、アテナイの人々が当然としてきた価値を揺さぶった。その営みが遠因となり、「若者を堕落させた」として告発され、死刑に処されたのである。
考える力は、それを支える魂の徳がなければ、人を導くどころか、人を惑わせる。プラトンは、思考が武器にもなりうることを、誰よりも深く理解していた。だからこそ、学ぶ順序を守らせようとしたのだ。
いま問われるのは、「考えるか、考えないか」ではない。何を考えるべきで、何を考えなくてもよいのか、である。
現代の私たちは、「考える力」を、それ自体が善いものだと信じて疑わない。批判的思考は、無条件に称賛される。
だが、プラトンは、そうは考えなかった。考える力は、それだけでは善を保証しない。向ける先を持たない思考は、真理に近づくどころか、最も危険な武器になる。
「もっと考えろ」と急かされる時代だからこそ、私は、この二千年以上前の警告に立ち返りたくなる。大切なのは、考える力を鍛えることだけではない。何を考え、何を考えないのか。その境界を見極めることなのだ。

