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キャリア・教育 #戦国最強の兄弟の軌跡

「信長死んじゃったけどどうする…?」織田の家臣がひよるなかで秀吉が下した"大きな決断"

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本能寺(写真: Hyper9 / PIXTA)
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2つ目は、摂津・尼崎・伊丹に一揆蜂起の噂があるということ。このままでは、またもや「乱世」が再来しそうな情勢だったようです。

3つ目は、摂津茨木の中川瀬兵衛、高槻の高山右近、尼崎・有岡の丹羽五郎左衛門は、信長の恩顧を受けた者らであるものの、軍勢を率いて明智軍と一戦するという「構え」はないこと。彼らの領内にて一揆が起こると「難儀」であり、それを警戒していたということもあるでしょう。

つまり間者が摂津などで見聞、情報収集してきた結果は、畿内の諸将は「日和見している」ということでした。

間者の話を聞いた長康は「主の羽柴秀吉様は遠方にはあるが、必ずやかけつけられ、明智退治の采配を取るであろう」ことや、信長を悼む言葉を発したとされています。

信長の死を聞いた秀吉の様子

『武功夜話』には、信長の死を伝え聞いた秀吉の様子について、「実をもって悲嘆の至り」と大いに悲しんでいたことが記されています。

一方でその直後には毛利方とすぐに和睦し、すみやかに自軍を撤退させること、殿(しんがり)は舎弟の小一郎(秀長)が率いることも記述されています。

ちなみに江戸時代前期に成立した秀吉の一代記『太閤記』(著者は小瀬甫庵)には、6月3日に信長・信忠父子の死が、京都にいた長谷川宗仁(京都町衆の出。信長に仕えた)によってひそかに秀吉に伝達されたとあります。

『太閤記』にも、信長の死を聞いた秀吉の様子が記されていますが、それによると「慟せる事、浅からず」(非常に慟哭した)という状態だったようです。

話を『武功夜話』に戻しましょう。大河ドラマや時代劇などにおいては、信長の死を聞いた秀吉軍が大急ぎで馬に乗り撤退(いわゆる中国大返し)する場面がよく描かれていますが、『武功夜話』にはそれとは異なる記述があります。「早船」を仕立てて、海路で姫路に向けて戻ったというのです。

船に乗る秀吉にお供したのは、蜂須賀小六・生駒甚助と馬廻16人という少人数でした。人目を忍んでの出立であり、家中でも秀吉の出発を知る者はほとんどいなかったとのこと。

しかし、秀吉が船で東行していることは前野長康には急いで伝えられました。長康は出迎えるべく「播州赤穂岬」にかけつけます。

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