秀吉が乗る船が赤穂岬に着いたのは6月6日のことでした。ここでお茶を飲むなどしてしばし休息した秀吉。出迎えの長康と亡き信長のことを語り合ったようです。
秀吉が下した命令
同書によると秀吉は信長の「厚恩」を思い「長大息」。「怨敵」光秀をすみやかに討ち取り、信長の無念を晴らす覚悟を持っていました。
そこで長康は、畿内の織田方諸将が光秀をすぐに討ち取る気配がないことを秀吉に告げます。
すると秀吉は「このような天下大事の時に不甲斐なき者どもだ。長康の言うように差し迫ったときであるので、あれこれ案じても仕方がない。これよりすぐに長康と蜂須賀小六は摂州尼崎に赴き、池田恒興に面談し、私の書状を差し出して合力するように働きかけよ。摂津の高槻衆や茨木衆にも与力するように調略せよ」と命令を下すのでした。
『武功夜話』には、小一郎は中国大返しの際、殿軍を担ったとありますが、その具体的な動き・活躍などは記載されていません。
(主要参考文献一覧)
・黒田基樹『羽柴秀長の生涯』(平凡社、2025年)
・濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社、2025年)

