社長は突然のことに驚き、椅子から半分腰を浮かせます。
「えっ、なんで。給料が不満? 人間関係に何かあった?」
Aさんは、静かに首を振りました。
「全部良かったです。残業もないし、皆さん優しかったし、本当に居心地のいい会社でした」
社長は混乱したまま聞き返します。「じゃあ、どうして」。
少しの沈黙のあと、Aさんは、こう答えたといいます。
「ここにいたら、3年後の自分が想像できてしまうんです。今と、何ひとつ変わらず成長していない自分が」。社長は、言葉を返せませんでした。
ここで起きたのは、ハラスメントでも、ブラック労働でもありません。むしろ、世間の多くの会社が「目指したい」と語るような、穏やかで優しい職場でした。それでも、最も優秀な若手が去っていった。なぜ、そんなことが起きるのか。Aさんの5年間をたどると、その構造が静かに浮かび上がってきます。
Aさんが前職の接客業を辞めたのは、心身ともに疲れ切っていたからでした。残業は月60時間超。上司の機嫌ひとつで、職場の空気が一変する毎日。そんなときに出会ったのが、C社です。最終面接で社長と人事部長から「うちは無理をさせない会社だから」「家族みたいに長く働いてほしい」と言われたとき、彼女は素直に救われた気持ちになったといいます。
入社してみれば、その言葉は本当でした。残業はほぼゼロ。先輩はみな穏やかで、誰かが声を荒らげる場面を見たことがない。有給は希望どおりに取れ、誕生日には小さなケーキが回ってくる。同期と「うち、ホワイトだよね」と笑い合う夜が、何度もありました。最初の数年、不満は何ひとつありませんでした。前職と比べれば、ここはまるで天国のような職場だったのです。
「君は本当に優秀だね」5年間言われ続けて、仕事は1年目のまま
Aさんは飲み込みが早く、取引先からの評判も上々でした。直属の課長は社内で人格者として知られ、面談のたびに「君は本当に優秀だ」「期待しているよ」と声をかけてくれます。
ところが、3年目を迎えても、彼女に任される仕事の中身は、入社1年目とほとんど変わっていませんでした。新規開拓は課長と部長の担当。A さんに任されるのは、既存先のフォローと事務処理だけ。「私にも、新規の提案を任せてもらえませんか」。何度かそう申し出ましたが、課長は穏やかに笑って、こう言うのでした。

