「貸家經營者は利益になればこそ貸家を建てるのであります、つまり家主の利益はそれだけ借家人の不利益となるわけでありますから住宅は御自分で御建てになつた方が有利であることは明かで御座います。每月御拂ひになる御家賃は知らず知らずの内に多額に上るもので御座います
五島慶太が学校誘致に精を出していた頃、渋沢栄一はイギリスの都市計画などをモデルにかの高級住宅地・田園調布を開発した(1918年~)。放射状の道を緩やかな円形のカーブが結ぶ緑豊かな町は、半日歩いても飽きないほどだ。
こうして集めた可処分所得の高い層が、大挙して乗り換える場所が渋谷駅だった。しかし前述のように谷底の狭小地にあたり開発は難しい場所である。
渋谷が文化の町として大きく発展するには“ある外部要因”が不可欠だった。近年は経営に苦心しているが、誰もが知る一大企業グループである。
「文化の魔術師」が舞い降りた(百軒店と西武百貨店)
1923年、関東大震災が起き東京の中心部は壊滅した。当時の東京市では63.2%もの家屋が全焼・全壊したとされる。
銀座・日本橋・浅草・上野など東京の中枢や下町が広範囲にわたって壊滅的な被害を受けた。一方、渋谷の台地上は比較的被害が少なかった。
当時西武グループの源流のひとつ「箱根土地」は、道玄坂の脇の台地に約3500坪の邸宅跡を所有していた。高級住宅地として分譲する予定だったが、震災を機に計画を変更。被災した下町の名店・老舗を渋谷に誘致するという斬新な構想を打ち出した。
東急が沿線に学校の誘致を進めていた時期である。
こうして1924(大正13)年に開業したのが117店舗を擁する「百軒店(ひゃっけんだな)」である。
・天賞堂(宝飾・時計・鉄道模型販売)
・資生堂(薬局・化粧品)
・菊屋
・大新
・来々軒(中華料理店)
・ジクス堂
・西川(寝具店)
・十一屋
・鹽瀬(和菓子店・饅頭)
・三銀
・山野楽器店(楽器・音楽用品店)
・台湾館
・精養道
・弁松(折詰弁当)
・与兵衛寿司(江戸前握り寿司)

