東急は、ここにどのように華やかな文化を持ち込んだのであろうか?
東急が集めたのはお金持ちではなく学生?(大正から戦時期)
霧に包まれた山々と田園―― 。
北陸新幹線の上田駅(長野県)から西へクルマを飛ばすと、青木村に辿り着く。2つの川が谷を削った地形は渋谷と瓜ふたつ。五島慶太(ごとうけいた)が生まれ育った場所だ。
貧しい寒村の次男坊として育ち、東京帝国大学を出てのちの東急電鉄を育てた。渋谷の成り立ちには欠くことのできない人物である。
東急線沿線を丹念に歩くと見つかるレアものが「大東急」のマークだ。Tの字をデフォルメしたデザインだが、我が物顔で闊歩する巨人のようにも見える。
「大東急」とは東急が戦時中に合併を進め、現在の京王や小田急、京急などの路線を全て傘下に置いていた頃の通称だ。戦時下の国策ではあったが、東急が最大勢力を誇った時期だ。
現在、初めて上京した人が東急線を利用すると、乗客のセンスの良さや洗練されたデザインの駅舎に目を見張る。沿線を見ると、東急は所得の高い層を意識的に沿線に集めたように見える。しかし実際の過程はやや特殊だ。
東急はどのように沿線を開発したのだろうか―― ?
東急が創成期にこだわったのは、沿線への大学などの誘致であった。
下は五島慶太が誘致に関わった主な学校のリストだ(現在は移転済みの学校あり)。
・1924(大正13)年 東京科学大学(東京高等工業学校)
・1925(大正14)年 攻玉社中学・高校(攻玉社)
・1932(昭和7)年 東京都立大学(府立高等学校)
・1932(昭和7)年 日本医科大学(日本医科大学予科)
・1934(昭和9)年 慶應義塾大学(慶應義塾大学予科)
・1935(昭和10)年 法政大学第二中学・高校(法政大学予科)
・1936(昭和11)年 東京学芸大学(東京府青山師範学校)
あまり金を使わない学生さんを集めてどうするのだろう?とも感じる。しかし当時の大学進学率はわずか1%程度。
将来エリートの地位が約束された先々の住宅ローン契約者、つまり「金の生る木」に育つだろう若木を沿線に植えていったのだった。上は当時の宣伝文。冒頭には次のように記されていた。

