連載「秀吉を天下人にした男、豊臣秀長の実像」の第25回は、織田信長から離反した荒木村重について『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』の著者・真山知幸氏が解説する。
荒木村重の離反に再三の説得を試みた織田信長
自分を裏切ったということがよほど意外だったらしい。天正6(1578)年10月21日、荒木村重が背いたという情報が入ってくると、信長は「不満があれば聞く」として、信用できる家臣を派遣している。堺奉行の松井友閑、重臣の明智光秀、側近の万見重元の3人だ。
なかでも光秀は村重の嫡男・村次の義父にあたる。説得役として信長も期待するところが大きかったことだろう。
3人に対して村重は「事実無根」と回答しながらも、安土への出仕は拒否。これだけでも処罰されてもおかしくはないが、信長は11月3日に再度、光秀と友閑、そして今度は羽柴秀吉の3人を遣わせた。それでも村重が説得に応じないとなると、自身も書状を出して、離反を批判しながらも「早く出頭せよ、待っている」とメッセージを送った。
信長が村重をできるだけ説得しようとしたのは、その実力をよく知っているがゆえだろう。村重が信長に仕えた状況を紐解けば、信長が手放したくなかった理由もよくわかる。
荒木村重の出自はよくわかっていないが、一説によると、天文4(1535)年に信濃守・荒木義村の子として生まれたとされる。荒木一族は摂津の中でも最有力だった池田氏に代々仕えており、村重は池田勝正の重臣となった。村重は勝正の先代にあたる池田長正の娘を娶り、その一族衆となったようだ。
