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ライフ #秀吉を天下人にした男、豊臣秀長の実像

荒木村重と饅頭で遊ぶ余裕はなかった織田信長の窮地、"光秀と村重"2人の裏切り者の共通点からわかる《信長の抜かり》

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まんじゅう
信長にとって荒木村重は“窮地を脱する大きな一手”でした(写真:MIKO / PIXTA)
  • 真山 知幸 伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)
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臨機応変で豪胆な村重の性格がよく伝わってくる逸話として流布されることになったが、逸話集を裏づける文献がなく、事実とは考えにくい。信長の窮地を考えても、そんなことをして遊んでいる余裕はなかっただろう。

実際には、信長は逢坂で出迎えてくれた村重と藤孝とともに、東山に進軍。義昭を討つべく動くが、このときに信長は2人に贈り物をしたと『信長公記』には書かれている。

「この時、信長は、郷義弘作の刀を荒木村重に、名物の脇差を細川藤孝に賜った」

村重と藤孝を味方に得た信長はその勢いで、4月3日から4日にかけて上京を焼き払い、義昭を圧倒する。両者はいったん和睦するも、完全に形勢は逆転。4月12日に信玄が信濃にて死去したことも義昭にとっては大きな痛手だった。信玄の死はしばらく秘匿されたが、それを知ったときには、義昭はもう引き返せない状態だったのである。

義昭が7月に宇治の槇嶋にて再度挙兵に踏み切ると、信長はこれを叩き潰している。佐久間信盛・丹羽長秀・柴田勝家・羽柴秀吉・明智光秀、そして荒木村重らの軍勢によって、槇島城を包囲して攻撃。義昭は追放されて、室町幕府は幕を閉じることとなった。

村重は天正2(1574)年、摂津国人である伊丹氏の支配する伊丹城を落城させる。伊丹城主となった村重は、信長から摂津一国を任されることとなった。

信長の厚遇が村重の心に響かなかったワケ

信長からすれば、十分に評価をして厚遇もしていた村重が裏切るというのは、まったく考えていなかったようだ。『信長公記』でも著者はこう憤っている。

「荒木村重は他家の家臣であったが、先年、将軍足利義昭が信長に敵対した時、信長の味方となって働いたので、摂津の国の支配を許したのである。しかるに、身の程もわきまえず、信長の厚遇をよいことに傲り高ぶり、ついに謀反を企むに至ったのである」

これに対して、天野忠幸は『シリーズ・実像に迫る 荒木村重』(戎光祥出版)で、信長の認識のズレを指摘している。というのも、村重は自力で摂津を切り開いて、治めることが許されたにすぎない。

つまり、秀吉に江北が、柴田勝家に越前が与えられたように織田軍が占領した地を与えたわけではないということ。同書がこう指摘するのもうなずける。

「信長が恩着せがましく言わねばならぬほどの恩賞なのだろうか。このあたりにも信長と信長から離反した者のズレを感じることができる」

ちなみに、家臣のなかでも出世頭として知られる明智光秀も、丹波は信長の命令を受け自力で攻め落として手に入れたもので、村重の摂津を収めたケースとよく似ている。この2人が、ともに謀反を起こしたのは偶然だろうか。

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