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「コンクリートの基礎を苔が覆う」「車庫の跡はマチュピチュのよう」…かつて1000人が暮らした「消えた山奥の街」の物語

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山奥に残る施設
選鉱過程で浮上した鉱物入りの泡を濃縮・分離し、金銀鉱を回収した「シックナー」と思われる施設(写真:筆者撮影)
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仕事と収入を求めて、人々は全国各地からこの山奥へと集まってきた。背景には政府の金増産政策があった。開戦前、欧米からの輸入代金を賄うために金の買取価格が大幅に引き上げられ、採掘が奨励されたのだ。金の価値は3倍近くに跳ね上がり、各地でゴールドラッシュが起きた。開戦後も金鉱山での労働は軍需物資の生産とみなされ、徴兵猶予の対象となっていたため、人々を引き寄せ続けた。

当時を知る数少ない証言者、小学校1年生の終わりから約2年間この街で暮らした堀道雄さん(94歳)はこう語る。「白米を食べ、みんな良い服を着てたね」——戦時下の物資不足が都市部をむしばんでいた時代、この山の中では豊かな暮らしが営まれていた。文献によるとぶりやサメ、木箱に入った干し芋や干し柿なども食卓に上がっていたようだ。

最盛期には、中核エリアの紅葉平地区だけで約13万m2、東京ドーム約2.8個分に相当する広さに、長屋約12棟を1丁として1丁目から4丁目まで立ち並び、需要が増すと大清水地区にまで増築された。昭和17年には、分校の児童数は247名に達していた。

観光事業化のために作成されたマップ。紅葉平地区は約13万m2の広さがある

堀さんの父は桐生から来た機械技術者で、選鉱場の設備修理の専門家だった。その技術の希少さゆえに鉱山長からも一目置かれ、地区の区長格として扱われたという。

堀さんたち子どもたちにとっては根羽沢は格好の遊び場で、川でサンショウウオを捕まえ、斜面でそりを走らせ、雪崩に突っ込むような危険な遊びもした。父に連れられて尾瀬沼まで遠出し、米粒で魚を釣ったこともあった。今は厳しく管理される尾瀬も、当時は鉱山の人々にとって日常の遊び場だったのだ。

山は金を生み続けた—最盛期の記録

三菱が採掘していた時代の通洞坑。内部は水没し、地下水が流れ出している(写真:筆者撮影)

鉱夫たちは毎朝、通洞坑口から山の地下へと出勤した。架橋と線路が敷かれた坑道を、トロッコが鉱石を積んで行き来していた。採掘された鉱石は選鉱製錬場へと運ばれ、選鉱・濃縮・製錬などの工程を経て金銀が抽出された。石英脈発見から最終閉山までの84年間で産出された金は約1000キログラム、銀は約65000キログラムにのぼる。

根羽沢鉱山の坑内とされる写真。崩落の危険があるため、現在は中に入ることはできない

秋になると、冬に備えて購買所にトラックの行列ができた。厳しい冬が来れば、この山は外界から切り離される。標高1300メートルの山中で、人々は深い雪に閉ざされながらもこの鉱山街での営みを続けた。

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