44年(昭和19年)8月、政府の「金山整備令」により、根羽沢鉱山は閉山を余儀なくされた。対英米開戦によって欧米からの軍需資材の輸入が途絶え、金よりも銅・鉄・石炭といった戦争遂行に直接必要な鉱物の増産が急務とされたためだ。最盛期を迎えようとしていたまさにそのとき、根羽沢鉱山は未来を絶たれたのである。
後の調査で明らかになったことだが、各社宅に風呂まで備わっていた可能性が高く、その土台は今も遺構として残っている。街の中には共同浴場もあり、三菱の重役を対象にした「クラブ」も存在していた。「協和会館」と呼ばれた、演芸や映画を楽しむ公民館のような施設まで備わっていたとわかっている。
戦時中に白米を食べ、子どもたちが駆け回っていた豊かな街は、一枚の政府の命令によって、幻のように消えた。鉱夫たちが暮らしていた長屋も、ただ山の中に取り残された。
山に飲み込まれた記憶
44年の一時閉山後、全国各地から集まっていた人々は散り散りになった。根羽沢鉱山は外から来た人々が作り上げた「一時の街」だったがゆえに、地元でも語り継ぐ人が極めて少ない。片品村で生まれ育った人々でさえ、この街の存在をほとんど知らないという。
61年に三菱金属の子会社・荒川鉱業株式会社によって採掘が再開されていたが、街が戻ることはなかった。その後も鉱山としての操業は続いたが、80年代に入ると円高による金相場の低迷が追い打ちをかけた。1986年、全作業員22人が山を下り、根羽沢鉱山の84年の歴史に完全な幕が下りた。
その後数十年をかけ、街は静かに自然へと還っていった。コンクリートの基礎を苔が覆い、金属の設備をさびがむしばみ、かつて人が行き交っていた道には木々が生い茂った。今この場所に立つと、「ここに1000人が暮らしていた」とはにわかに信じがたい静寂がある。
資料もない「歴史に存在しない街」だったこの街だが、ある人物の執念によって、忘却の淵から引き上げられようとしている。
その物語は後編で描く。
