多摩川、東海道と水陸の両面で交通利便性がよく、都心部に近い六郷は工業地に適していた。同年、六郷村は六郷町へ改称された。
六郷町の工場数は1928(昭和3)年にはわずか3軒であったが、工業地域の指定を受けると、1929(昭和4)年には41、1930(昭和5)年には61と急増。さらに1931(昭和6)年の満州事変後、六郷地区の工場は著しく増え、並行して宅地化も進み人口も急増した。
1937(昭和12)年に日中戦争が勃発すると、軍需工場地帯となっていく。田畑の工場用地化、宅地化が進んでいった。
軍需工場が立地していたことから、第二次世界大戦で度々空襲を受け、六郷地区は一面焼土と化した。大田区の戦災地域図を見ると、六郷土手駅周辺はほぼ全域が焼失している。
工場跡地が集合住宅に
戦後は、戦前の大工場地帯から町工場の密集地になっていく。
高度経済成長期にも工場は稼働していたが、公害問題が発生し、拡張用地の不足や地価の高騰も相まって移転が進んでいく。跡地には集合住宅が建てられた。
六郷土手駅の周りには戸建てや小規模なアパート・マンションが多いが、街を歩いているとときどき大きな集合住宅に出会う。特に、駅東側の多摩川沿いに集合住宅が並んでいる。
川沿いに工場が建てられ、その跡地がマンションになる……という流れは、以前、本連載で取り上げた江東区でも見られた。
