最初の橋は1600年に徳川家康が架けたといわれている。だが、その後の洪水で何度も橋が流されたことから、1688年の大洪水で流失して以降、六郷の渡しという渡し船に変更された。
六郷の渡しのたもとの集落として、八幡塚村という村が発展。東海道の江戸の入り口であり、旅人向けの商いや休息場の機能をもっていた。
多摩川を渡った先には、東海道の川崎宿があった。現在も六郷橋を渡ると「東海道川崎宿」の街路灯が目に入り、川崎に入ったのだなということと、ここが東海道であったことがすぐにわかる。「家康が架けた六郷大橋は洪水で流され、以後、実に二百年の間、渡し舟の時代が続きました。舟をおりて川崎宿に入ると、街道筋は賑やかな旅籠街」と記されている。
また、六郷土手側の旧東海道にも標識板が立てられている。街の歴史を知って、街をゆっくり歩くと、その跡が刻まれていることに気づいて面白い。
明治時代に入ると、1889(明治22)年に 八幡塚村、雑色村、町屋村、古川村、高畑村が合併して六郷村となった。多摩川の沖積地を利用した果実栽培が行われ、梨や桃の産地で有名だった。
1918(大正7)年に多摩川下流の治水工事がはじまり、田んぼや耕作放棄地が埋め立てられていく。1919(大正8)年から開始された耕地整理と相まって、六郷土手一帯には新たな土地基盤が生まれた。
関東大震災を境に工業地帯へ
1923(大正12)年の関東大震災を境に、六郷の街は大きく変貌していく。関東大震災後、政府は都市計画法に基づいて東京市内の焼失区域の建築を制限した。これにより工場が郊外へ移転せざるを得なくなり、 移転先として内務省が1928(昭和3)年に六郷村を工業地域に指定したのだ。
