日立市の商業は、日立鉱山(1905年創業)と日立製作所(10年創業)の発展とともに形成された。鉱山や工場で働く従業員とその家族が人口の大半を占め、地域の消費を支えていたからだ。
丸和百貨店が生まれたのも、この企業城下町の拡大期だった。昭和13年(1938年)版の『日本百貨店年鑑』は、丸和百貨店について「軍需景気の波に乗って今や昇天の勢で伸展している」「町勢に伴ひ驚異的の進出」と記している。30年代後半の時点で、すでに日立の発展とともに急成長していたことがうかがえる。
戦後、丸和百貨店は水戸の老舗呉服商・伊勢甚に買収される。銀座通りの店舗をそのまま引き継ぎ伊勢甚日立店として営業した後、71年に鹿島町へ新築移転した。
日立鉱山の開坑から半世紀ほどで、日立市は茨城県有数の工業都市へと成長。百貨店もまた、その拡大と並行するように規模を広げていったのである。
「商業の中心地」を作るための再開発
ところが70年代に入ると、日立市の商業には陰りが見え始める。背景にあったのは、購買力の分散だった。
日立市は山と海に挟まれた南北に長い地形で、市内には小木津・日立・常陸多賀・大甕(おおみか)の4駅が点在する。それぞれの駅周辺に商店街が形成され、商業の中心が分散していた。
業界誌『商業界』(84年5月号)では、日立市を「消費の流入のない閉ざされた商圏」と表している。85年3月の日本経済新聞も、日立市の小売業年間販売額が水戸市の半分以下にとどまり、人口規模が半分以下の土浦市にも肉薄されている状況を報じている。
市内に買い物の中心地がなく、市外への購買流出も深刻だった。
こうした状況を打開するため、市が主導して進めたのが、神峰町1丁目の市街地再開発事業である。市の再開発リーフレットには、「工業中心都市のため、ショッピングによる楽しむまちとしての表情に乏しい面がありました」と記されている。
市は、中心市街地に大型商業施設を整備することで、購買人口の流出を防ごうとしたのだ。
