現今の暮らしばかりではない。久しく日本人の精神生活を支え、血肉にもなってきた仏教が、そもそも漢字だらけ。もちろんこちらはオリジナルの中国語ではない。サンスクリットなどのインド仏典の漢訳に由来する。だから仏教・お経を理解するなら、まず漢字・漢訳のありようを知らねばならない。縁なき衆生のわれわれに、船山徹がその要点をかいつまんで解説してくれる。
けっきょく漢語・漢字・漢文は、日本語そのものの問題なのだ。中国由来の漢字は、日本語をどう文字化したのか、そこで漢字・漢語はどのような役割を担ったのか。日本語にとって漢字は何なのか。こうした根本的な問いに、今野真二は日本語テキストの「標準設定(デフォルト)」からの歴史をたどって、一つの解答を提出する。
かたやその日本語は漢字・漢語をとりこむとともに、ひらがな・カタカナを産み出し混淆させる固有の構造を現出させて、現代に至った。そのプロセスで二重言語・翻訳言語の側面を濃厚にした経緯を述べる加賀野井秀一の指摘は、あらためて嚙みしめたい。「カタカナ語の氾濫」という現今の課題にどう応じるのか、あらためて考えさせられると同時に、日中・東西の言語文化のちがいも、またかいまみえるからである。
身近な漢字から見つめる世界
不穏な世情、有事のドル買い、またまた円安・物価高なのか。あいかわらず先行きは不透明。一つだけハッキリしているのは、カタカナの「ドル」は「円」とも「元」とも別物だということである。
それを同じ「元」表記にしては、どうにも違和感がまぬかれない。そんな日本人の感覚も、やはりプリズムたる漢字・漢語・漢文の歴史的な所産なのだろう。日本を知り、世界を知るには、どうやら物価・為替のみならず、もっと身近な漢字にも、目を向けたほうがよさそうである。

