良し悪しではありません。どの国も、それぞれの歴史を背負いながら、教科書という装置を通じて次世代に何を渡すかを選択しているのです。
最初の一行から始まる「選択」
冒頭に戻りましょう。日本の教科書は、クロマニョン人や四大文明から始まります。多くの読者にとって、それは当たり前の入り口に見えるはずです。
しかし、植民地支配の歴史を持つ国では、「国家の歴史」を語る前に、その土地にいた人々の暮らしから書き起こす必要が生じます。何を起点にするか――それを決めた瞬間、その国の価値観や政治性が立ち上がってしまうのです。
教科書とは、その意味で、最初の一行からすでに「選択」の産物なのです。
ロシアの新教科書が私たちに突きつけているのは、戦争の正当化という極端な事例ですが、本質はすべての国の教科書に通底しています。自国の加害をどう語るか、被害をどう位置づけるか、そもそもどこから歴史を始めるか――その一つひとつの選択が、10代の子どもたちが浴びる“世界の見え方”を形づくります。
私たちが当たり前に学んできた教科書もまた、無数の選択の産物でした。他国の教科書を覗き見ることは、自国の教科書を相対化する最良の方法です。そして、相対化されて初めて、私たちは自国の歴史教育について本当の意味で議論を始められるのかもしれません。

