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「最寄り駅からバスで1時間」「食堂が貧弱で空腹学生が続出」…剛腕理事長がゴリ押しした「青学・厚木キャンパス」撤退の顛末

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背景に大山をのぞむ森の里の住宅エリア
背景に大山をのぞむ森の里の住宅エリア。森の里は、南北に走る幹線道路を挟んで、東側に企業や大学の誘致エリア、西側に住宅エリアがある(写真:筆者撮影)
  • 松本 史 フリーランス編集・ライター

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少子化が進んだことで、大学キャンパスを移転・再編し、学部・学科の新設・再編を絡める動きが相次いでいる。そんななか、気になるのは「キャンパスがなくなった街」だ。
連載「街とキャンパス」。青山学院大学の厚木キャンパス(1982年4月~2003年3月)を取り上げる。おしゃれイメージの強い青学が、なぜ遠方の厚木にキャンパスを構えていたのか。開校の背景や、不便すぎて学生から様々な不満が噴出していた当時の状況を解説した前編に続き、後編では撤退までの顛末をお届けする。
前編:「サ店も雀荘もパチ屋も飲み屋もない」と嘆きの声…開学からわずか21年で消滅「青学・厚木キャンパス」はなぜ作られたのか

新学部設立で校地探しが具体化する

大学設置基準に校地面積が足りない状況をなんとかしようと、青学は1972年ごろから千葉県君津市、町田市真光寺の物件、東京都稲城市など、さまざまな場所を検討している。ただ、いずれも話がまとまらず、校地探しは長年の課題になっていた。

しかし、1979年10月に国際政治経済学部の設立委員会が設置されてから、事態は急速に動き始める。同学部の設立は、当時、青山学院で大きな影響力を持っていた大木金次郎院長・理事長が、1969年に国連総会に出席した頃から、長年温めてきたものだった。

新学部設立には新しい校地が不可欠だったが、なんと、設立委員会設置からたった3カ月で、大木氏はその校地を探し出してくる。「翌一九八〇年一月七日に開催された臨時理事会で大木は、神奈川県厚木市に校地を購入するために、宅地開発公団との取得交渉を進めていることを報告し、了承を求めた。これに対して理事会では格好の物件であり価格も妥当であるとして、全会一致で購入を承認した」(『青山学院大学五十年史』)。

そうして、1980年3月に住宅都市整備公団と土地譲渡契約を締結。面積は約15万2700㎡で、購入価格は49億5000万円だった。

それまでの多くの候補地はまとまらなかったのに、なぜ厚木は数カ月で決まったのか?

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【青山学院が「森の里」を選んだ理由】

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