青山学院管理部長は、文部省に校地として認めてもらう第一条件「中心校地から平常の交通機関を利用して、1時間以内に到達可能なこと」がクリアできたのが大きかったと振り返っている(『宅地開発』 NO96 1985年11月「大学からみた複合都市 青山学院は何故厚木森の里を選んだのか」)。
しかし、実際には中心校地の青山キャンパスから本厚木駅までなら1時間程度だが、厚木キャンパスまでとなると1時間半ほどかかる。文部省の条件設定自体、なんとも大雑把なものだ。
また、「交渉相手が公団という信頼度の高い公的機関であり且つ、公団のみが交渉の窓口」であったことも決め手の一つだったという。それまでの候補地は、地権者が10人以上に及んだり、交渉先は1本化されていても間に知らない仲介者が何人か存在したケースもあった。さらに、土地開発にかかる諸手続きを、全て公団が担ってくれるのも便が良かったようだ。
そして推測するに、やはり大木氏が新学部設立を急いでいたという事情も大きかったのではないだろうか。
厚木キャンパスは秀吉に倣った手法で建てられた!?
しかし、新学部設置のために厚木校地を購入したが、もともと青山キャンパスの校地が不足していたため、新学部だけを厚木に設置しても、校地不足問題は解決しない。そこで出てきたのが、1、2年生の教養課程を移す案だ。
当時、大木氏は理事長として「厚木校地の具体的な利用計画は大学の自主性に任せる」という方針を表明していたが、「大木院長は購入契約締結前から、厚木校地には一般教育課程を移すことを明確に表明(後略)」(『青山学院大学五十年史』)していたそうだ。
つまり、厚木キャンパスへの教養課程の移転は、大木氏の強力なリーダーシップのもとに実行されたといっていいだろう。ちなみに、国際政治経済学部は結局、青山キャンパスに設置された。
そうして、大木氏はさらなるリーダーシップを発揮し、驚くことに、1981年5月の工事開始から10カ月で厚木キャンパスを完成させてしまう。
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【工事の手法は豊臣秀吉の故智に倣った?】
