親世代は、こうやって自分の子を守ってきたのに、会社に行くと「まずは自分で考えて動きなさい」と若者に主体的に動くことを求めたりします。ちょっと矛盾してますよね。
こうした環境で育った若者が、社会に出た途端に「主体性」を求められる。彼らが戸惑うのは無理もありませんよね。
「主体性」は教育現場のキーワードにもなっている
——「主体性」は、2020年スタートの学習指導要領で「主体的・対話的で深い学び」が重視されるなど教育現場でもキーワードになっています。今、学校では答えのない課題を主体的に解決する探究学習に注力しています。
僕の考え方としては、「主体的」という言葉は学習指導要領や教育の文脈では使わないほうがいいのではないかと思っています。
本来は、自らの考えに基づいて行動することを指す主体性を「外から育む」とはどういうことなのか? という論理矛盾に向き合わないまま進んでしまっているからです。
例えば、大学入試の総合型選抜における面接でも、受験生は「自主的に地域経済活性化のために活動しました」などとアピールしますが、その多くはかつて先輩がやって高評価だったことの焼き直しだったり、塾の先生などに指導された内容だったりするわけです。
つまり「主体的ってこういうもの」というテンプレートがあって、そのとおりの行動を取ることで主体的だと評価されていると。主体性を外から育む難しさは、こういうところにあるんです。現場の先生方もみんなおかしいと感じていると思います。
実際、そうやって主体性をアピールして大学に入った後は、再び横並びに戻ります。例えば何の科目を履修するかは「同級生が何を履修するか」で決まったり。この構図、企業における新卒採用とまったく同じですよね。採用面接における就活生の“主体的な”振る舞いと、実際に入社した後の新入社員のおとなしさに驚く先輩世代はとても多いと思います。
——主体的と評価されるために「主体的な行動」を演じているということですね。学校ではどのような力を育んでいくのがよいでしょうか。
例えば、給食を食べずに毎日焼きそばパンを持参する子がいたとして、本来であれば主体的な行動として評価してよいはずですが、学校はそれをたしなめるでしょう。
それならば、最初からあいまいな「主体的」などと言わずに、「社会生活を送るための土台を一緒に身につけよう」とするほうが、よほど健全です。社会生活を送る土台としての「型」は誰もが持つべき基本であり、教育で育まれる重要な要素です。そういう意味では、教科学習で学ぶことをもっと前面に出してもいいと思うんです。
算数や数学などの教科学習で学ぶことも、給食を残さず食べようということも、授業がある日は学校に来るということも、「型」として受け入れよう、「型」を守ろうと。
教育の8割はその「型」の習得に充て、残りの2割で個性や自分らしさを発揮すればいい。「型」は「型」として大切にしつつ、その上に「個」を乗せるイメージ。こうした切り分けを明確にすれば、先生たちにもわかりやすくなるのではないでしょうか。
後編では、学校現場にも増えているこうした「無敵世代」と協働して忙しい学校をうまく回していくためのヒントを探る。
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