「自分の現在および将来の仕事において、英語を話せることのバリューは、自分が生み出す全体のバリューのどの程度を占めるのか?」である。
例えば、いま40代のビジネスパーソンで、英語が出来なくても仕事で困っていない人は、いまさら英語に注力する必要はない。それより、自分のコアスキルを強化し、必要なときは英語が話せる人材を雇う、あるいはAIを駆使して語学ハンデを解消する、という方向に時間を使うほうが合理的だ。50代になればなおさらそうだろう。残り時間の使い方が問われる。
一方で、これから社会人になる人にとっては話が別だ。英語ができることは職業上の選択肢を広げ、情報収集力も格段に高めてくれる(もちろん英語単体では不十分で、他のスキルとの掛け算で考える必要はあるが)。英語学習に注力する、というのは十分に“良い努力”になり得る。
同じ「英語を勉強する」という行為でも、人によって良い努力にも悪い努力にもなる。社会人の勉強とはそういうものだ。
私が“履歴書100通”を選ばなかった理由
もう一つ、私自身の経験からも書いておきたい。
私が大学を卒業して社会に出たのは、就職氷河期真っ只中の2001年だった。当時はまだネット就活やSNSなどがなく、手書きの履歴書と志望動機を書いてやり取りするのが主流。しかも氷河期のため、手書きの履歴書を100通送って返事は1社、というのが普通だった。
これは余談だが、当時は大きく3つの層がいた。物量に物を言わせて履歴書を書きまくる層。「戦略的留年・留学」と称して、時間稼ぎをしつつ状況の好転を待つ層。そして最初からフリーターを選ぶ層。
状況が状況だけに仕方ない面はあったが、いま振り返ると、履歴書100通は“良い努力”とは言い難かった。トップ校の学生ですら苦戦する中で、中堅クラスの大学の学生が同じ手法で同じ会社を狙っても、突破できる確率は極めて低い。それは量の問題ではなく、戦い方の問題だったからだ。
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【量で勝負するか、方向性で勝負するか】
