三英傑が集った「金ヶ崎の戦い」
元亀元(1570)年4月25日、手筒山城を攻略した織田信長は、翌日には金ヶ崎城を総攻撃して、朝倉景恒を降伏させている。開城した金ヶ崎城に軍勢を集結させると、越前朝倉氏の本拠に攻め込む準備を整えた。
そのときである。「北近江の浅井長政が裏切った」という情報が入ってきた。一転して絶体絶命のピンチに陥った織田軍だったが、『信長公記』に「信長は、浅井が背いたというのは誤報であろうと思った」とあるように、なかなか信じなかったらしい。
しかし、多方面から情報が寄せられると、信長も浅井が裏切ったという事実を受けいれたようだ。金ヶ崎城に豊臣秀吉を残して、京都へと撤退。逃げるまでの間、秀吉が最後尾の「殿(しんがり)」を務めて朝倉勢の攻撃をしのいだという。
「殿」は命を落とす可能性も高い難しい役割だったが、秀吉は自ら志願して引き受けたという。みながしり込みする任務こそ積極的に引き受ける。それが出世の早道だと考えていたのかもしれない。
次ページが続きます:
【徳川家康も秀吉をサポート】
