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ライフ #秀吉を天下人にした男、豊臣秀長の実像

「浅井の頭蓋骨を金箔で飾ってお披露目」姉川の戦い勝利で見せた信長の残虐

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一乗谷朝倉氏遺跡
一乗谷朝倉氏遺跡(写真:T.Fukuoka / PIXTA)
  • 真山 知幸 伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)

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天下人となる兄を支えた弟の豊臣秀長にスポットライトをあてた、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。豊臣秀長は、豊臣政権内ではトップリーダーである秀吉と家臣たちとのよき橋渡しとなりながら、対外的には兄の代わりに有力な戦国大名たちと渡り合うこともあった。その働きぶりから「理想のナンバー2」とも評されるが、一体どんな人物だったのか。連載「秀吉を天下人にした男、豊臣秀長の実像」の第17回では、秀吉や秀長が仕えた信長の残虐性について『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』の著者・真山知幸氏が解説する。
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三英傑が集った「金ヶ崎の戦い」

元亀元(1570)年4月25日、手筒山城を攻略した織田信長は、翌日には金ヶ崎城を総攻撃して、朝倉景恒を降伏させている。開城した金ヶ崎城に軍勢を集結させると、越前朝倉氏の本拠に攻め込む準備を整えた。

そのときである。「北近江の浅井長政が裏切った」という情報が入ってきた。一転して絶体絶命のピンチに陥った織田軍だったが、『信長公記』に「信長は、浅井が背いたというのは誤報であろうと思った」とあるように、なかなか信じなかったらしい。

しかし、多方面から情報が寄せられると、信長も浅井が裏切ったという事実を受けいれたようだ。金ヶ崎城に豊臣秀吉を残して、京都へと撤退。逃げるまでの間、秀吉が最後尾の「殿(しんがり)」を務めて朝倉勢の攻撃をしのいだという。

「殿」は命を落とす可能性も高い難しい役割だったが、秀吉は自ら志願して引き受けたという。みながしり込みする任務こそ積極的に引き受ける。それが出世の早道だと考えていたのかもしれない。

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【徳川家康も秀吉をサポート】

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