「穴を掘って中に善住坊を立たせ、肩まで土をかけて埋め、首を鋸で引き切った。信長は年来の鬱憤を晴らし、上下一同の者はこれに過ぎる満足はなかった」
信長が科した刑罰は「竹鋸引き」。首だけ出したまま土中に生き埋めにして、通りがかりの人がそばに置いてある竹鋸で、思い思いに首を引いていくというものだ。
自分の命を狙った者の見せしめの刑とはいえ、あまりにも残酷である。善住坊は通行人に次々と、首を鋸で引かれ、地獄の苦しみのなかで、7日目に絶命した。
よほどインパクトの大きい出来事だったのだろう。宣教師のルイス・フロイスも「ある仏僧が立ったまま生き埋めにされ小さなノコギリで首を切断された」と『日本史』で、この事件を記している。
3人の頭蓋骨を宴会で披露した
元亀元(1570)年6月28日、現在の滋賀県長浜市姉川付近で、信長と家康の連合軍と、浅井長政と朝倉義景の連合軍が激突。この「姉川の戦い」において、織田軍は勝利し、1110人あまりを討ち取ったとされている。
しかし、距離的に小谷城まで一気に落とすことは難しいと、信長は考えたようだ。横山城を落とすと、秀吉に城主を任せている。
リベンジはいったんお預けとなったが、天正元(1573)年8月に信長は越前に大軍勢を送り込んで、一乗谷で朝倉義景を自刃に追い込んだ。その後、近江に引き返すと、浅井氏の居城である小谷城を攻撃。浅井久政や浅井長政を討ち、浅井氏を滅ぼすことになる。
勝利を祝う宴席で、信長は常軌を逸した行動に出たらしい。朝倉義景、浅井久政、浅井長政の3人の頭蓋骨を金箔や銀箔で飾って、家臣たちにお披露目したのである。
食事どころではなくなりそうだが、酒が飲めない下戸の信長も、勝利の余韻に酔いしれたのか、終始ご機嫌だったという。
自分に歯向かう者は、絶対に許さない――。そんな信長の残虐ぶりを目の当たりにした秀吉もまた、権力を握ると、恐るべき凶行に及ぶことになる。
【参考文献】
太田牛一著、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
杉山博編『多聞院日記索引』(角川書店)
宮島敬一著『浅井氏三代』(吉川弘文館)
河合敦著『豊臣一族 秀吉・秀長の天下統一を支えた人々』(朝日新書)
金松誠著『松永久秀 シリーズ・実像に迫る』(戎光祥出版)
竹内理三編『史料大成多聞院日記〈全5巻〉』(臨川書店)
河内将芳著『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(戎光祥出版)
真山知幸著『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(日本能率協会マネジメントセンター)

