そこから対談は、ソニー創業者・井深大氏の話題に。新入社員だった当時の久夛良木氏と井深氏とのエピソードからも、久夛良木氏の「異端児」ぶりが垣間見える。
久夛良木:入社して間もない頃、私が実験室でハンダゴテを持っていると、井深さんはフラッとやってきて「君、何やってるの? 面白そうだね」って。普通の会社なら、自分より数十歳も年上の創業者が近づくと「はいっ!」と直立不動だよね。でも僕はそのまま座って取り組んでいるシステムの説明を始めたんです。早速、翌日には事業部のメンバーが見学に来たりして、その速さに驚きました。
対談は、徐々にテーマの核心である「プレイステーション(プレステ)」の開発秘話へと入っていった。
当時の常識を覆す32ビット次世代機の構想――その実現のために久夛良木氏が捨て去ったのは、ソニーの社内リソースに頼る「自前主義」だ。92年、プレステの心臓部となる、リアルタイムで3DCGを演算する圧倒的なCPUを求めて、シリコングラフィックス(SGI)やLSIロジックといったアメリカのトップ企業との交渉を始める。
久夛良木:インテルでさえできなかったことをやろうとしていた。そのための答えは、ソニーが単独でやるんじゃなくて、世界の最先端にいるトップエンジニアたちとコラボすることだったんです。
大西:いつも取材していて思うのですが、日本のメーカーって徹底的に自前主義ですよね。ぜんぶ内製でやりたいっていう。
久夛良木:おそらくそれ以外知らなかったのでしょう。ソニーは昔からオープンな「みんなでつくる」主義。トランジスタだって最後の量産はソニーかもしれないけど、いろんな人の無形のアイデアが集まって生まれたんです。
それまで数百〜千単位でしかチップを作ったことのないLSIロジックに、久夛良木氏は異例ともいえる「100万個」の部品発注を提案した。同社のコーリガンCEOも呆気に取られていたが、それは同席していたソニーの徳中暉久CFOも同様だった。
久夛良木:サインをするとき、徳中さん、ボールペンを持ったまま石膏のように固まっちゃった。思慮深い人だから頭の中でいろいろ考えていたんだろうね。「もしソニーが潰れたら……」とか。でもあまりに沈黙が長かったので「徳さん、ここだよ」とサインする場所を指した(笑)。
大西:でも、そのコミットメントがあったからこそプレステの道は拓けたんですね。
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