日本に必要なのは国論の二分ではない、思考停止・議論停止をやめて「真実を求め、いい案を出すために議論する姿勢」だ

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一方、日本の場合はまったく違う。それは、国会答弁のような、言質を取られまいとする中央銀行と、見出しになる「失言」を引き出そうとするプレスの質問なのである。

それならある意味、スパイ戦のような高度な神経戦で、プロ同士の闘い、として見ごたえがある場合もあるのだが、現状は、それには遠く及ばず、ただ揚げ足を取るような質問、あるいは、疑心暗鬼になって、表面的にはそう言っているけど、本音はこうなんじゃないのか、という疑心暗鬼の探り合いの質疑応答である。

日本に必要なのは「真摯で率直で全力の話し合い」

そもそも、質問そのものが記者自身で考えたわけではなく、デスクに仕込まれた「通り一遍のもの」が多く、自分の意思で聞いている質問で、素朴な疑問、というのが1つもないに等しい。

これでは、記者会見をやる意味はネガティブでしかない。中央銀行が苦労して言わないでおこうとしたもの、なぜなら、それはマーケットに悪影響を与えるから、言わないようにしていることを無理やり聞き出して、マーケットが荒れ、日本経済にマイナスになることに全力を傾けている質問だからだ。

利上げか利下げか、それが日本経済の分水嶺になるような場面であれば、それも仕方がない。だが、今週の状況は、イラン情勢が重要すぎて、金融政策は動かないに決まっていて、今何も言えないに決まっているのだ。だから、そういうときは絶好のチャンスで、フランクに根源的なこと、素朴なこと、あるいはお互い知恵を出し合うようなこと、そういうことが議論できるはずなのだ。

この点で、アメリカという社会は本当に優れており、それは格差社会の知性のてっぺんだけで行われるものかもしれないが、だからこそ、アメリカのトップの大学、大学院の雰囲気は、欧州にもできないことなのだ。しかし、それにしても日本はひどい。これは社会のどこかが間違っているというよりは、いわゆる有識者やメディアの認識が間違っているからではないのか。

例えば、日本人は議論が苦手だ。だから、教育現場では、ディベートをやらないといけない、という。これが根本的に間違っている。なぜなら、ディベートでは何も生まれないからだ。ディベートとは、2つの側に分かれて、ポジションを決めて、相手を論破する「ゲーム」である。ここでは、建設的な議論も、新しいアイデアの出し合いもない。相手を論破する、論理的にやっつける喧嘩だ。ディベートをするのは、社会を破壊することにしかならない。

日本に必要なのは、対決する議論の練習ではなく、アイデアを生み出す、あるいは真実を見つける、真摯で率直で全力の話し合いなのである。

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