年収は1/3に「それでも名物DがTBSを辞めた」理由 大前プジョルジョ健太さんが辿る「奇異な人生」

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彼が幼少期によく遊んでいた友人は、ホームレスの男性だった。実は大前さんが番組を作るうえで核となる部分には、この幼少期の日々が多いに影響している。

「当時の大阪は、『2002 FIFAワールドカップ 日韓大会』などがあった影響で、公園にいるホームレスの方々が立ち退かされてしまったんです。その中でもわずかに公園に残っていた方と僕は接する機会が多くて、よく遊んでもらっていました。『100円あげるから、1000円ちょうだい』って言われてましたね(笑)」

特に仲がよかったのが、「俺はロッテの2軍監督なんや」「西鉄ライオンズの元ファーストや」とにわかに信じがたいことを自称する“しんのすけ”さん。当時の大前さんは、しんのすけさんの言うことを信じて尊敬していた。

「しんのすけさんとは、ほぼ毎日野球をして遊んでいました。ある日、ボールがしんのすけさんの眼鏡に当たって壊れたことがあって。プロ野球の監督なのに、ずっと眼鏡を買い替えずにセロハンテープを貼って使っているので、もしかしたらホームレスなのかなと気づきました。だけど彼と遊ぶのは楽しかったし、ホームレスであろうと関係ありませんでした」

大前さん
幼少期の大前さんと姉(写真:大前さん提供)

だが、しんのすけさんと別れるきっかけが訪れる。

「しんのすけさんは握力が70kgあると言っていたのですが、小学校の握力測定では平均が20~25kgくらいだったので、凄い怪力だなと思ったんです。それで家からリンゴを持っていって、しんのすけさんに潰してみてと渡すと、できなかった。僕が『嘘つくなよ!』と言って大喧嘩になりました。それからしんのすけさんは野球に来なくなった。なんであのとき、しんのすけさんにあんなことを言ってしまったんだろうとずっと後悔しています」

小学生だった大前さんはしんのすけさんとの出逢いと別れを通じて、「世の中は正しいことを言うだけが、正義じゃない。時と場合によっては嘘をつかなければならないこともある」と悟ったという。

“光の当たらない人”にフォーカスする番組を作りたい

高校では野球部に入り、キャプテンまで務めた大前さんだが、才能には恵まれず1試合も出ることなくずっとベンチウォーマー。大学に進学してからは、花火師の免許を取って東北地方に花火を上げに行ったり、落語家やミュージシャン、ダンサーの友だちを集めて車1台で地方の祭りに参加し、寄席をやる活動を行ったりしていた。

大前さん
地方の祭りを回り、自作ステージで寄席をしていた(写真:大前さん提供)
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