「一揆」と「SNS」歴史作家が語る驚きの"共通原理" 意図的に自分の名前を広めようとした首謀者も

ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

他方、蓮田のような根無し草のような牢人なら、幕府側も徹底的に探索・処罰しやすかったのでは、との考えもありました。

呉座 そうですね。百姓たちが土一揆を起こして借金を棒引きさせる徳政を要求する論拠はそこです。本来は自分たちが耕している自分たちの土地なので、借金を返せないからといって土倉(どそう)などに奪われるのは不当だということです。

根っこでつながっている「土一揆」と「足軽」

垣根 ポイントはそこですね。しかし、『室町無頼』を書くとき、私がフォーカスを当てたのは農民ではなくて、京都の牢人社会でした。畿内で最も貧苦にあえいでいたのは、都市部に流入してきた牢人階層だろうと思ったんです。

彼らはとにかく飢えていました。皆が平等に飢えているのならともかく、現実的には、あの狭い京の中でとても富んでいる階層もいます。

ただし、その飢えた牢人集団は、自分たちがそうした貧富の構造を覆してやるなどと考えていたのではなく、後のことは知らないけど、とりあえずそのシステムのようなものに反抗してみようという感覚だったのではないか、と。

ようは、一揆を首謀した蓮田兵衛にしても、史上初めて足軽を組織した骨皮道賢(ほねかわどうけん)にしても、そのような社会的状況が必然的につくり上げた人物なのだろうと思います。

当時の京都は人口約10万人です。骨皮道賢がいつ市中警護役に就いたかわからないのですが、資料によると、1460年には渋谷口(しぶたにくち)の強盗を鎮圧しているという記録があります。その2年後に蓮田兵衛の寛正の一揆が起こっています。

呉座 そうですね。

垣根 一方は牢人社会で首領的な役割として暗躍している蓮田兵衛、もう一方は、その犯罪などを取り締まる骨皮道賢。狭い京の街で、この2人が互いにまったく知らないはずがないというところが、この物語の発想の根本です。

呉座 そこが本当に鋭いと思いました。言われてみると、絶対につながっています。この辺りも、今は研究が進んできました。昔は、一揆というのは基本的には農民の闘争だと位置づけられていて、足軽との接点というのはあまりきちんと考えられてこなかった。そして、土一揆は農民の反体制の動きであるとして、プラスの評価をされてきた。

次ページマイナスイメージがつきまとう「足軽」
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事