大河や映画話題「安倍晴明」伝説と現実のギャップ 数々の作品、令和の今でもファンが多い背景
しかし当然ですが、現実の晴明は化け物ではなく、人間です。父も母もいたのです。
晴明の父は『尊卑分脈』(室町時代に編纂された系図集)「安倍氏系図」によると、安倍益材(ますき)だとされます。母親についての記載はありません。
晴明の父・益材は「大膳大夫(おおかしわでのかみ)」だったと言われています。大膳職(宮内省の管轄。宮中の官人の食事や朝廷での会食の調理を担当)の長官だったのです。つまり、陰陽師ではありませんでした。晴明の先祖も、陰陽師ではなかったのです。
晴明の陰陽師としての活躍は『今昔物語集』(平安時代末に成立した説話集)などにも掲載されていますが、それはあくまで物語集に記載されたものです。
実際の陰陽師の仕事内容
『本朝世紀』という平安時代末に編纂された歴史書には、晴明について次のように記されています。「正統朝臣の左大臣に申して陰陽師晴明を召して政始の日時勘文を進めしむ」と。これが史書に晴明が登場した最初の記述だと言われています。康保4年(967)6月23日の項目です。晴明はすでに47歳でした。
では、先ほどの一文はどのような意味なのでしょう。左大臣・藤原実頼の意向を承った、大外記・菅野正統に「陰陽師晴明」が呼び出されることになります。
政始(年始や改元などのあとに、天皇が初めて政治を行う儀式)を催行するのはいつがいいのか、晴明は吉日や吉時を書き出した文書(日時勘文)を正統に提出したのです。
後世の物語などにあるような、天皇の病を治しただとか、呪術行為といったような話ではありません。それらと比べたら、とても、地味な活動が記されていたのです。
朝廷の儀式を、凶日に行うわけにはいきません。吉日を選ばなければならないのです。凶日を避け、吉日を選ぶ。それが、平安時代中期における陰陽師の仕事の1つとなっていたのです。
とはいえ、そうした行為を地味なものであると、あくまで現代人の視点から申し上げましたが、平安時代の人々にとっては、重要なことだったのでしょう。
(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・繁田信一『安倍晴明』(吉川弘文館、2006)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・繁田信一『殴り合う貴族たち』(KADOKAWA、2008)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)
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